江戸時代後期に作られた浅草天文台跡を見に行こうと、浅草橋駅から歩きました。
その途中、道の横に巨大な木がそびえ立っていました。
メタセコイアという木です。
100万年前に絶滅したと思われていたが、1946年中国・湖北省で発見され、生きた化石と呼ばれている木で、樹齢は1000年を超すこともあるそうです。
この木は株式会社菊星という化粧品メーカーのシンボルマークになっています。
高さは25m以上。都内最大のクリスマスツリーになることもあるようです。
都会の道路わきにシューっと空に向かって伸びている巨大な姿にちょっと圧倒されました。
メタセコイアを過ぎて、少し行くと天文台跡です。何も残っていません。
天明2年(1782)、この地に設立された施設で、天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行っていました。正式な名称は「頒暦所御用屋敷」。暦を作る役所です。
寛政7年(1795)、高橋至時が幕府天文方になります。同じころ伊能忠敬が江戸に出てきて高橋至時に弟子入りします。伊能忠敬が19歳年上です(高橋至時 31歳、伊能忠敬 50歳)。
高橋至時は寛政の改暦を成し遂げます。その後も天文学の研究に邁進し、「ラランデ暦書管見」などを著しました。伊能忠敬が測量を始めるきっかけを作るとともに、測量事業を支援しました。
高橋至時は残念ながら40歳で亡くなりますが、日本の天文学の発展に大きく寄与しました。
それにしても、高橋至時や伊能忠敬がいた浅草天文台。どういう雰囲気だったのでしょうか。大学の研究室やゼミのようなものだったのかな。
二人のやり取りを聞いてみたいと思いました。