姫路市網干に網干陣屋跡があります。
江戸時代、ここは四国、丸亀藩の陣屋でした。
当時、網干は余子浜村、新在家村、興浜村に分かれて、余子浜村は幕府の天領、新在家村は龍野藩領、興浜村は丸亀藩領でした。
池田輝政の時代、播磨全体が姫路藩でした。その後、池田家が鳥取に転封になると播磨は細分化されます。
寛永14年(1637)、京極家が龍野藩主になり、網干は龍野藩領となりました。
万治元年(1658)には讃岐丸亀藩に転封となります。藩主がいなくなった龍野は寛文12年(1672)に脇坂家が入封するまで幕府領となります。
しかし、網干は京極家の領地のままとなり、丸亀藩の飛地として明治まで続きました。
丸亀藩の飛び地は網干だけではなく、揖保川対岸(たつの市)の水神社のところに、「丸亀藩使者場跡」の標柱が建っています。
参勤交代で領地の街道を通る大名に丸亀藩の使者が敬意を評して挨拶した場所、ということです。
陣屋の建物のほとんどは明治3年(1870)に壊され、残った陣屋門は檀尻庫として利用されていたそうです。
現在の建物は陣屋門を参考にして、昭和62年(1987)に改築されたものです。
陣屋跡の建物のお隣に田ステ女さんの像が建っていました。
6歳のとき
雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡
という句を詠んだそうです。
田ステ女は兵庫県丹波柏原の出身です。
子供を育て上げたあと、網干に移り、龍門寺の盤珪和尚の教えを受け、不徹寺を開基しました。
陣屋のすぐ近くに金刀比羅神社があります。陣屋内に金刀比羅さんを祀っていたそうです。
このあたりは昔ながらの建屋・町並みが残っています。落ち着いた感じがして、風情がありました。