八家地蔵

八家地蔵は姫路の南、的形海岸近くにあります。
昔は子授け地蔵として信仰を集めていたようです。

お地蔵様が安置されているお堂。
お堂の中のお地蔵様。

鎌倉時代に造られた地蔵菩薩半跏像。
江戸時代に書かれた「播磨名所巡覧図絵」にも載せられている。
子授け地蔵としても有名。

お地蔵さまは光背・台座を含めると210㎝で石造りの
地蔵菩薩像としては稀にみる大きさである。
光背及び本体部は一石より彫り出され、蓮台は別の一石で作られている。

鎌倉時代の石造地蔵菩薩の優作と評価されている。

説明看板より

安政元年(1854)西国の旅をした清河八郎が八家地蔵を訪れ、次のように記しています。

浜のきわにて八家の地蔵を見る。大なる石仏なり。千年ばかり已然に亀の甲羅に乗りて海中より浮かみいづるぞ。(浜の際で八家地蔵を見た。大きな石仏である。千年ほど前に亀の甲羅に乗って海中から浮かんできた)

※ 清河 八郎
幕末の庄内藩出身の志士。浪士組を結成し、近藤勇、土方歳三らと京都に行く。近藤らは後に新選組を結成。清河は江戸に戻るが、幕府の刺客により暗殺される。

八家地蔵の由来には違う話もあります。

昔、真面目で働き者の又太夫という男がいた。又太夫が育てた子どもたちも、親にならって働き者だった。そのおかげで家は栄えた。
あるとき近くの海岸に巨大なお地蔵様が打ちあげられる。そこで、お堂を建ててお地蔵様をお祭りすると、近在の人々が参拝するようになった。
日増しに参拝する人が増えていったが、道が狭く、常に込合っていた。しまいには又太夫や近隣の畑が踏み荒らされるようになってしまう。
道が狭いからいけないのだと考えた又太夫。自分の土地を割いて道を拡げた。
道が大きくなり参拝もしやすくなり、通行する人が増えたため村も栄えた。
村人は又太夫を称えて、地蔵を八家地蔵と呼ぶようになった。

八家地蔵の近くにある小赤壁。夕日が沈んでいきました。