備前焼の町

備前焼の町・伊部を訪問しました。

備前焼は日本遺産である日本六古窯の一つで、元は須恵器作りから始まり、現在まで続く焼き物です。

※日本六古窯
 朝鮮半島や中国からの渡来人によって作られた焼き物とは異なり、日本古来の技術が継承された窯。
  瀬戸焼 愛知県瀬戸市
  常滑焼 愛知県常滑市
  越前焼 福井県丹生郡越前町
  信楽焼 滋賀県甲賀町
  丹波立杭焼 兵庫県丹波篠山市
  備前焼 岡山県備前市

備前焼の特長

  • 備前で採れる陶土を使う。
  • 釉薬を使わない。
  • 薪窯で7〜10日間、1200℃前後の高温で焼く(焼成)。

備前焼の色

備前焼は釉薬を使わないため、土の色が焼き物にあらわれるそうです。

備前焼ができるまで

  1. 土作り
  2. 土揉み・成形(一次成形)
  3. や半乾燥・削り・仕上げ(二次成形)
  4. 乾燥
  5. 仕込み・窯詰め
  6. 窯焚き(焼成)
  7. 冷却・窯出し

備前焼ミュージアム

JR赤穂線 伊部駅の近くに備前ミュージアムがあります。
備前焼の歴史、5人の人間国宝の作品の展示、若手陶芸家の展示など、焼き物が好きな人には楽しいミュージアムだと思います。

備前焼ミュージアム

備前焼の歴史

備前焼の歴史が説明されていました。

  • 岡山県邑久郡一帯で古墳時代より須恵器の生産が営なまれていた。
  • 平安時代末期から鎌倉時代初期
    備前の地で生活用器の腕・皿・盤や瓦の生産を始まった。当初は白、灰色をしていた。
  • 鎌倉時代から室町時代
    山土を使用した壺、かめ、すり鉢が作られるようになった。
    備前焼特有の赤褐色の焼肌が出てくるようになった。
  • 室町時代後期
    山土に変わって田土が使用されるようになった。
    ロクロが用いられ、量産ができるようになり、半地上式の穴窯が作られた。
    南北西に大規模な共同窯(大窯)が築かれ、窯元六姓(木村、森、宮寺、大饗、金重)による独占的生産が行なわれた。
    茶道の流行による茶陶器が作られるようになった。
  • 江戸時代
    備前焼は藩の保護もあって全国に普及した。
    備前すり鉢 投げても割れね、と唄われた。
    しかし江戸時代末期には唐津や瀬戸で陶磁器の生産が行なわれるようになり、備前焼は圧迫されていった。
  • 明治から昭和初期
    備前焼は衰退。備前焼だけでは成り立たないため、土管や耐火煉瓦の生産が行なわれた。
  • 昭和
    苦境に陥った備前焼を金重陶陽氏が救う。
    金重陶陽氏は備前焼で初めて人間国宝に認定された。

人間国宝

重要無形文化財は「演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いもの」で、「重要無形文化財に指定される芸能を高度に体現できる者」「重要無形文化財に指定される工芸技術を高度に体得している者」が重要無形文化財の保持者と認められ、人間国宝と呼ばれます。

備前焼では金重陶陽、藤原啓、山本陶秀、藤原雄、伊勢崎順の5名が人間国宝になっています。

金重陶陽

昭和31年(1956)備前焼作家として初めて人間国宝に指定されました。
桃山期の古備前を現代によみがえらせ、今日の備前焼の隆盛を築いた人物と紹介されていました。

金重陶陽氏の像

備前焼ミュージアム3階には「人間国宝の間」があり、作品を見ることができました。

不老せせらぎの径

伊部の町には窯の煙突が立ち並んでいます。

200基を超える窯があり、300人を超える作家・陶工がおられるそうです。

不老川沿いの川辺は風情があります。
すてきな景色です。

北野神社

創建は応永18年(1411)、ご祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、菅原道真公、大巳貴命(おおなむちのみこと)、天太玉命(あめのふとたまのみこと)です。

伊部に疫病が流行したとき、伊部村名主に神託があり、天正7年(1579)に浦伊部宮前から現在地に遷座されたそうです。

備前焼の狛犬
神門

神門と随身門の屋根瓦は備前焼。
塀には陶板がはめ込まれています。

元文3年(1738)の建立の隋神門

随身たちも備前焼のようです。

本殿は延宝6年(1678)の改築で備前市の重要文化財、拝殿は元文3年(1738)の改築とのこと。

物見台から伊部の街を見ました。
南大窯跡が見えました。

江戸時代、ここから窯の煙も見えたのでしょう。

物見台から伊部の町を見る

忌部神社

忌部神社は北野神社の摂社ということで、陶祖・天太玉命がお祀りされています。
備前焼関係者に崇拝されているそうです。

北野神社は明るい感じがしたのですが、忌部神社はちょっとおどろおどろしい感じがしました。転がっている備前焼の破片を持って帰ると、罰があたるということが書かれていました。
そして、「破片を持って帰った人が本当に不幸になった」という張り紙もありました。
ちょっと、怖い。

伊部では江戸時代中期まで北大窯、西大窯、南大窯という巨大なトンネル式の窯で備前焼は焼かれたようです。特に南大窯は巨大。

その後、江戸後期に小型の窯が作られ、焼き物製作の効率アップが図られました。

天保窯

天保窯は天保3年(1823)頃に作られた窯で昭和15年頃まで使われたそうです。
これまでの大窯より燃焼効率がよく、大窯では35日かかっていたのが、10日ほどで焼き上がるようになり、生産効率が大幅に向上したそうです。
イノベーションがあったのですね。

大窯より小型というけれど、すごく大きいです。

北大窯跡

北大窯跡は不老山のふもと、天保窯の上にあります。
杭が立ち並び、焼き物の破片が転がっていて、すこし木々の影で暗い。
ここには3基の窯跡が残っていて、「応永の大窯」という室町時代中期に造られたと考えられる窯は全長 33 m、幅 4〜5 m、傾斜角度 20度という大きさです。

西大窯跡

江戸時代に作られた西大窯。
全長 37 m、最大幅 5 m、傾斜角度 15 度という大窯の跡です。

南大窯跡

南大窯は平安時代から明治時代の窯跡が集中しているそうです。
最大の窯跡は全長 53.8 m、最大幅 5.2 m、平均勾配 17 度。巨大です。

窯の跡が小山のよう。それが備前焼のかけら!

備前焼のかけら

一回の焼成に薪 15,000〜16,000貫(56〜60トン)を焚き、徳利、すり鉢、かめ、小皿などの製品 34,000〜35,000 個を34〜35日かけて焼いた、ということです。
巨大な工業、製造業ですね。

備前焼の名前は知っていたのですが、街全体がやきものの街になっているとは思ってもいませんでした。そして、その歴史の長さ、江戸時代の窯の巨大さ、物作りパワーに驚きました。