岡山・不受不施派

祖山妙覚寺

岡山市北区御津にある妙覚寺。日蓮宗・不受不施派の祖山といいます。
江戸幕府による弾圧を乗り越え、明治になって建てられた寺です。

不受不施派の苦難は文禄4年(1595)に始まります。
豊臣秀吉が京都東山大仏殿の千僧供養を開催します。ところが、京都妙覚寺の19代日奥聖人は出席を拒否。千僧供養に出席することは「法華経を信仰しない人から布施を受けず、またそれらの宗派に布施をしない」という日蓮宗の宗祖・日蓮の教えにそむくと考えたからでした。

秀吉死後の慶長4年(1599)、供養に出席した側(受派)の訴えにより、徳川家康は日奥聖人に大仏供養に出席するよう強要。日奥聖人がこれを拒否すると聖人を対馬に流罪とします。

寛永7年(1630)、幕府は受派の訴えにより身延派(受派)と池上派(不受)とを対論。不受派の僧侶らを各地に配流します。日奥聖人を再度、対馬配流を命じますが、聖人はすでに遷化されていました。

日奥聖人のあとを日船聖人が受け継ぎ、同志30余名は妙覚寺を去ります。
不受不施派は禁制宗門となり、キリシタンと同じような弾圧を受けました。

幕府が倒れ、明治9年(1876)、日正聖人を中心とする宗門復興運動が実を結び、不受不施派は公認されます。日正聖人は旧難波抱節邸に龍花教院を設立。明治15年(1882)には妙覚寺を再建し、不受不施派の祖山としました。

岡山は不受不施派の活動が盛んで、厳しい弾圧を受けたようです。
岡山県和気町佐伯に矢田部六人衆の供養塔が残っています。

寛文6年(1668)岡山藩主・池田光政は儒教を広めるために、仏教を攻撃、特に日蓮宗不受不施派を弾圧。
備前佐伯の本久寺の僧侶・日閑聖人は寺を追われましたが、密かに矢田部村に戻り、同地の人々の教化にあたります。しかし、日閑は見つかり捕らえられます。
日閑聖人は追放の身でありながら布教したという罪で、また、日閑に追随した河本五兵衛、河本二兵衛、河本喜右衛門、花房七太夫、松田五郎右衛門ら5人も処刑されます(寛文8年/1668)。さらに一門の妻子はことごとく捕らえられ追放されました。
彼らは矢田部六人衆、二十八人衆として祀られています。

日本にもこういう激しい宗教活動があったことを初めて知りました。