道林山横蔵寺は白雉年間(650〜654年)に法道仏人により開基。
光孝天皇(在位884〜887年)の時代に祈願所となり、宇田天皇が法皇になられた後(897年〜)には、法皇の潜邸(隠居所)になり、大きく盛えたようです。
天正6年(1578)羽柴秀吉の三木城攻めで一堂一坊を残し焼失。このとき、ご本尊は空中を飛んで水葦村にあるお堂に逃れたという伝承があります。
法道仙人はインドから雲にのってきてやってきた超人。ご本尊も飛行の術を得ていたのかもしれません。
藤木明子氏著の「播磨西国三十三ヵ所巡礼」によると次のような話です。
境内に摩尼転七福神という亀の上に七福神が刻まれた石球を背中に載せた亀の像がありました。
七福神は楽しそうに微笑んでいます。回して祈願すると福が巡ってくるそうです。
観音堂にはご本尊の十一面千手千眼観世音菩薩像が安置されています。
観音堂の脇には33の観音様が並んでおり、観音様巡りができます。
奥州の人、運慶は諸国巡歴をしていたが、九州の宮崎で妻をめとった。
妻が身ごもったころ、急に父母のことが気にかかり、妻子を残して帰郷した。
父母を見送り、一人になると残してきた妻子のことが気にかかり、日頃信じる観音に祈願した。すると、「わが左身をつくり、それを持って西へ行くと必ず憧れている子供に会うことができるだろう」とお告げがあった。
一方、運慶の子、湛慶も成長。母に父のことを尋ねると、「お前の父運慶は奥州生まれの仏師だったが、国に帰ってから何の頼りもない」と告げられた。父が恋しい湛慶が観音に祈願すると「わが右半身をつくり、それを持って東へ行くべし」と告げられた。
湛慶は観音の右半身を刻み、こもに包み、旅に出る。
播磨国加古郡野口村のあたりで、向こうからこもを背負った老人に出会う。
二人はお互いの身の上を語り合うと、親子であることがわかった。二人がそれぞれ刻んだ御仏の半身を合わせると一刀で刻んだように一分の隙もない尊像となった。