本所松阪町公園の吉良邸を訪問しました。
もともとの吉良邸は東西733間(134 m)、南北34間(63m)坪数2550坪(8,400㎡)という広さ。今、その吉良邸跡は5m四方程度の本所松阪町公園になっています。
そして、その中に吉良邸にあった井戸、稲荷社などの遺跡、義士を描いた浮世絵、吉良家の領地であった愛知県西尾市に残る吉良家の遺品などの写真などが展示されています。
もともと吉良邸は江戸城地殻の鍛冶屋橋というところにあったそうです。
ところが、その屋敷は元禄11年(1698)の火事で消失。このとき消防の指揮を取っていたのは赤穂藩主浅野内匠頭長矩だそうです。赤穂浅野家初代の浅野長直(長矩の祖父)は火消しの名人だったようで、孫の長矩は火消大名に任命されています。
火事の後、吉良は呉服橋で屋敷を再建。
元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良上野介義央に斬りかかる事件が起こりました。
事件を起こした浅野内匠頭は切腹、赤穂浅野家は断絶。藩士は浪人になってしまいました。
元禄14年(1701)9月3日、本所松阪町へ移ります。この引越しは幕府からの命令でした。
幕府がこの命令を出した理由はわかっていませんが、城から遠い本所へ移ったので、赤穂浪士が討ち入りしやすくなりました。
討ち入りしたのが元禄15年(1703)12月14日。
赤穂浪士の討ち入りで吉良家側は吉良上野介以外に20名が亡くなっています。
それに対して赤穂浪士側は死亡者ゼロです。赤穂浪士側の完勝でした。
しかし、藩主の仇をとる、武士の義を見せるといっても、討ち入りは野蛮な感じもします。討ち入りメンバーの下級武士の若者などはどういう気持で討ち入りに参加したのでしょうか。
元禄16年(1703)2月4日、幕府によりこの地は没収。吉良家は改易となりました。