吉田松陰らが収容された伝馬町牢屋敷。
東京メトロ、小伝馬町駅のすぐそばの十思公園、大安楽寺がその跡地です。
伝馬町牢屋敷は今で言う刑務所ではなく、未決囚を収容しておく場所でした。また、死刑も実行されました。
慶長年間から明治8年に市ヶ谷囚獄ができるまで、収容されたものは数十万人にのぼると考えられています。
広さは2618坪もありましたが、収容者は300~400名ほどで、身分によって収容される獄舎が変わります。収容人数が増えすぎて、もともと劣悪な環境がさらにひどくなると、人減らしのために殺人が行われたそうです。牢内は囚人による完全自治制だったということですが、ルールは力だけの弱肉強食の世界だったのではないでしょうか。恐ろしいところです。
刑が決まり、市中引き回しの上、磔(はりつけ)となると、伝馬町の牢屋を出て鈴ヶ森か小塚原の刑場に行き、打首の場合は引き回しの後、伝馬町に戻って斬首されました。
処刑場は大安楽寺の地蔵尊の所にありました。
幕末、安政の大獄では吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らが伝馬町で処刑されています。
墓は南千住(小塚原)の回向院にあります。
明治8年(1875)、処刑場でなくなった人たちを慰霊するために、大安楽寺は創建されました。
大倉喜八郎や安田善次郎らの寄進を受けており、大安楽寺の「大」は大倉、「安」は安田から取られました。
大安楽寺の向かいに十思公園があります。
この公園には吉田松陰の石碑、杵屋勝三郎歴代記念碑、石町時の鐘などがあります。
十思とは十思之疏(天子がわきまえるべき十か条の戒め)からきています。
公園の奥に石碑が3つ並んでいます。
右の石碑が吉田松陰「終焉の地」碑。
左の石碑は吉田松陰顕彰碑。
真ん中の石碑は辞世の句が刻まれています。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
留めおかまし 大和魂」
死を前にしても、気概が込められた句だと思います。
天子がわきまえるべき十か条の戒め、十思之疏は十思小学校の校訓でもありました。
十思之疏を意訳した説明板があります。
欲しいものがあっても、多くを望まないことを思う。
十思公園内の説明板より
物事を行う時には、度をこさないようにすることを思う。
立場や地位が高くても、控えめな態度をとることを思う。
十分満足な時には、むしろ減らすようにすることを思う。
楽しみを味わう時には、程よく控えめにすることを思う。
遊び暮らしていると、身を滅ぼしてしまうことを思う。
正確な情報を得るには、周囲の意見を良く聞くことを思う。
悪口を憎むより、自分の言動を正しくすることを思う。
優れた功績をあげても、必要以上に褒めないことを思う。
過ちを罰する時には、感情的にとがめないことを思う。
すばらしい教えだと思いました。