田ステ女

田ステ女は江戸時代元禄期の女流俳人です。
寛永11年(1634)、柏原藩(兵庫県丹波市柏原)に生まれます。

ステ女が生まれた柏原藩は織田信長の弟・織田信包が立藩した藩で、ステ女が生まれた当時は、3代目・織田信勝が藩主でした。

柏原藩陣屋跡

ステ女は元禄の四俳女の一人に数えられた俳人で、松尾芭蕉より少し前に活躍しました。
   ※元禄の四俳女:田ステ女、園目、智月尼、秋色女
6歳のとき「雪の朝  二の字二の字の  下駄の跡」の句を詠みます。
10歳のとき、親戚の酒屋のお手伝いをしていたとき、お菊という女性が酒を買いに来たとき、「酒一升  九月九日  使い菊」と書きました。
子供の頃、頭が五七調になっていたみたいです。そんなことが楽しかったんでしょうね。
17歳のとき、藩主の織田信勝に召し出されました。信勝公から「岩で袴を作ってくれぬか」と言われ「仰せなら  岩を袴に  縫い裁つに  浜の真砂を  糸に縒りけり」と詠みます。

19歳のとき、継母の連れ子・季成(すえなり)と結婚。5男1女に恵まれます。

慶安3年(1650)に織田信勝公が亡くなり、嗣子がなかったため、柏原は幕府の天領になります。そして、その代官職にステ女の父・季繁(すえしげ)が任じられます。
ステ女は柏原でも名門の家に生まれ、育ったのですね。

ステ女は北村季吟という和歌・俳句の先生に学びます。松尾芭蕉も北村季吟の門下生でした。
当時の俳諧集にステ女の句が掲載されています。
「憂き中に  なれて  雪間の  嫁菜かな」
「蜩や  捨てておいても  暮るる日を」

柏原藩陣屋前に丹波市立柏原歴史民俗資料館があり、田ステ女記念館が併設されています。
ステ女自筆の句集(いろは歌)が展示されています。くずし字で、全く読めないのですが、非常に美しいと思いました。

丹波市立柏原歴史民俗資料館

ステ女42歳、夫の季成が亡くなります。ステ女は柏原高谷に庵を結び、千日の間ひたすら念仏に明け暮れ夫の菩提を弔いました。この庵は千日寺と呼ばれるようになったそうです。
千日寺は明治になると廃寺になりましたが、現在その跡に「ステ女公園」が造られました。

ステ女公園にはステ女像、句碑などが並んでいます。

ステ女公園
ステ女像

「露の身の 消えぬも悲し もろともに 枯れゆく萩ぞ うらやまれぬる」
「秋風の 吹きくるからに 糸柳 心ほそくも 散る夕べかな」

句碑

夫・季成も和歌、俳句を嗜んでいたそうです。代官である夫を助け、夫婦二人で同じ趣味を楽しみ、子供にも恵まれるステキな日々を送っていたのでしょう。

天和元年(1681)ステ女は剃髪し、名を妙融と改め仏門に入ります。
天和3年(1683)ステ女は京に出ます。幼い四男、五男を連れて、武家や宮中の方々に歌、句を教えていたそうです。
「菊の綿や 天津乙女の 召しおろし」
ステ女の名声は知られていたようです。

天和3年(1683)盤珪禅師に会います。「不生の仏心」を説く盤珪禅師の聞法に魅せられたステ女。
貞享3年(1686)ステ女は盤珪禅師のいる網干に移ります。すごい行動力です。

貞享5年(1688)不徹庵の庵主となり、「貞閑」という名を拝します。
不徹寺は「女性による女性のための尼僧庵。女性(ステ女)が創建し、代々尼僧が守り続けるお寺」ということです。ステ女が開基して以来の伝統が受け継がれています。

不徹寺山門
境内

座禅の修行だけではなく、地域交流など、色々な活動をされているようです。
張り紙など、ハツラツとした感じがします。

張り紙

元禄11年(1698)貞閑尼(ステ女)は亡くなります。66歳でした。
墓は盤珪禅師開山の龍門寺にあります。

貞閑尼(ステ女)の墓


6歳から句の才能を発揮し、結婚、育児のかたわら、その才能を伸ばす。
しかし、歌の道を捨て、仏門に入る。そして女性のために開基したお寺が300年続いている。
才能の素晴らしさ、意志の強さを感じました。ステキな女性だったのでしょうね。