小塚原刑場跡

江戸時代、犯罪人を処刑した小塚原刑場。
大森の鈴ヶ森刑場、八王子の大和田刑場と並ぶ江戸の三大刑場です。

小塚原刑場が設立されたのは慶安4年(1651)以前といわれています。敷地は間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1800坪という広大なもので、日光街道に面していたそうです。ここでは磔(はりつけ)、獄門の刑が行われるとともに、刑死者や行き倒れなどの無縁の死者の埋葬が行われていました。また、刑死者の遺体で試し切りや腑分け(解剖)が行われていました。
慶安4年(1651)に刑場ができてから明治6年(1873)に廃止されるまでに、20万人以上の罪人が処刑されたとあります。計算すると、一年に900人、毎日2人か3人が死刑になっています。
想像もつかない数字です。現代とは全く違う世界だったですね。

延命寺・首切り地蔵

JR南千住駅すぐそばの延命寺、回向院が刑場の跡地で、延命寺には首切り地蔵が祀られています。

延命寺
首切り地蔵

首切り地蔵は刑死者をはじめとする無縁仏の供養のため、寛保元年(1741)に建立されました。高さ 3.6 m の大きなお地蔵様です。地元では延命地蔵尊と呼ばれているそうです。

回向院

寛文7年(1667)、本所の回向院によって、小塚原にも回向院が開創されました。
刑死者や行き倒れになった人々を供養しました。
回向院には吉田松陰や橋本左内といった幕末の志士の墓、ねずみ小僧や高橋お伝の墓。
解体新書を作るきっかけとなる腑分けを行ったということで観臓記念碑があります。

回向院

観臓記念碑

明和8年(1771)3月4日、蘭方医の杉田玄白、前野良沢、中川淳庵は腑分けを見学します。そのときオランダ語の解剖学書「ターヘル・アナトミア」の正確さに驚き、この本を日本語に訳すことを志します。
3年後の安永3年(1774)、翻訳が完成。日本初の西洋医学書の翻訳書「解体新書」が発行されました。

観臓記念碑

鼠小僧次郎吉、高橋お伝の墓

鼠小僧の墓は本所回向院にもありますが、鼠小僧は小塚原で獄門にされ、こちらにも墓があります。
高橋お伝は、明治の初め殺人罪で処刑された女性で、歌舞伎や小説に希代の毒婦として取り上げられました。

鼠小僧次郎吉、高橋お伝の墓

左端が鼠小僧次郎吉の墓で右から2番めが高橋お伝の墓です。一番右の握りこぶしは腕の喜三郎という江戸時代の侠客の墓です。江戸時代に、こんなデザインの墓を作ったのでしょうか。

吉田松陰、橋本左内の墓

吉田松陰、橋本左内の墓が回向院にあります。

吉田松陰の墓
橋本左内の墓

二人とも安政の大獄で死刑にされました。死なずにいたら、日本の歴史が変わっていたかもしれません。