大阪城

大阪城

大阪城に行きました。
堀、敷地の大きさ、そのスケールに圧倒されました。
確かに天守閣は鉄筋コンクリートで復元されたものなので、姫路城などと比べると史跡としての価値は小さいかもしれませんが、大阪の地を治めるにふさわしい城だと思いました。

乾櫓の西外堀を見ると、堀の幅、石垣の高さから、こんな城を攻め落とすことなんか絶対にできっこないと、戦国武将も思ったでしょう。

西外堀の乾櫓

それにしてもたくさんの観光客、それも海外からの観光客が多いように感じました。
みんな大阪に来たら、大阪城にも寄るのでしょうね。

大手門へ向かう

大手門の柱は上下2つの柱で継がれています。複雑なはめ込み構造です。どうすればこんな風にはめることができるのか、全くわかりません。
この謎は1983年にX線撮影が行われ、解き明かされました。
この継ぎ手を作ったのは石浜組(現田中建設株式会社)の創業者・石浜太郎平さん。大正12年に工事が行われました。

不思議な継ぎ手

大手門をくぐると多門櫓の渡櫓です。ここには巨大な石が使われています。
小豆島から持ってきたという説明がありましたが、どうやって運んだのでしょうか。

多門櫓の渡櫓
大手門桝形の巨石

桜門を入ると大阪城で最も大きい蛸石が現れます。表面積は約60平方メートル。重さは約108トンです。
こんな大きくて重いものは現在でも運ぶのは大変です。
備前岡山藩主・池田忠雄によって備前から送られたということですが、小分けにしようと思わなかったのは武将の矜持からでしょうか。

蛸石

天守閣には登城する人の列ができていました。
海外からの観光客に交じって修学旅行の学生がたくさんいました。

たくさんの人が来ている

天守閣も内部は博物館になっていて、楽しい展示がされていました。

大阪夏の陣の模型

天守閣に入るときにもらったパンフレットによると大阪城は4つの時代に分けることができます。

最初は石山本願寺の時代です。
明応5年(1496)頃から蓮如上人によって大阪に本願寺の堂舎が建てられ始めます。
そのとき、地中からたくさんの石が出てきたといいます。現在、古代の難波宮跡と大阪城の地が重なることがわかっており、地中から出てきた石は難波宮の礎石ではないかと見られています。
このエピソードがもとで「石山」本願寺と呼ばれました。

城内の石山本願寺推定地

次が豊臣秀吉の時代です。
秀吉は天正11年(1585)から石山本願寺が出ていった跡地に築城を開始します。
本能寺で織田信長が殺された1年後のことです。
天正13年に5層の天守閣が完成。三の丸、惣構は文禄3年から5年にかけて造られました。
秀吉が亡くなる慶長3年(1598)から4年にかけて工事で、大阪城の防御力がさらに強化されます。
長い時間をかけて秀吉の大坂城が完成しました。

しかし、慶長19年(1614)と慶長20年(1615)に起こった大坂冬の陣、夏の陣によって大阪城は陥落。

秀吉が造った大阪城は破却され、その跡に徳川秀忠によって現在の大坂城が築城されます。秀吉の大坂城は今の大坂城の地下に埋められてしまいました。
また、秀忠は秀吉の大坂城の倍の大きさを目指したということで、スケールは徳川の大坂城の方がかなり大きいようです。

秀吉の大坂城は地下にある

徳川の大坂城も寛文5年(1665)の落雷で天守閣を失い、幕末・明治維新の戦火によって多くの建物が焼失。明治以降は陸軍用地として使われます。
その後、大阪市民の寄付などによって昭和6年(1931)に現在の天守閣が再建されました。
平成9年には国の登録有形文化財になっています。

8階の展望台から見る

天守閣の南方に豊国神社があり、秀吉公の銅像が建っています。
今の大坂城を見て秀吉公はどう思うのでしょうね。

豊臣秀吉公