岡崎・大樹寺

大樹寺山門

大樹寺は松平家第四代・松平親忠が文明7年(1475)に創建した浄土宗の寺で、松平家・徳川将軍家の菩提寺です。正式名称は成道山松安院大樹寺といいます。
徳川家康の遺言によって将軍家の位牌所と定められ、15代・徳川慶喜を除く歴代将軍の位牌がまつられています。

大樹寺の沿革
 文明7年(1475)松平親忠によって創建。
 天文4年(1535)松平清康によって多宝塔が建立される。
 寛永13年(1636)三代将軍・徳川家光によって大造営が行われる。
 安政2年(1855)本堂より出火。
 安政4年(1857)本堂(現本堂)が再建される。

ビスタライン

大樹寺から岡崎城までは約3キロメートル。
山門、総門の向こうに小さく岡崎城の天守が見えます。この眺望はビスタラインと呼ばれています。
三代将軍・徳川家光の「祖父(家康)誕生の地を望めるように」との思いから、大樹寺の山門、総門の真ん中に岡崎城が見えるように山門、総門が配置されました。

家光がこのように大樹寺を作ってから約390年間、誰もこの眺望を遮るようなことをせずに、ビスタラインが守られてきました。

山門、総門の向こうに岡崎城が見える

本堂に入ると大樹寺の案内が放送され、内部を拝観できます。
将軍の間、開運の貫木、等身大の位牌などユニークな文化財や宝物があります。

安政4年(1857)に再建された本堂

「厭離穢土、欣求浄土」と「大樹寺の陣」

徳川家康(当時は松平元康)が19歳の時に「桶狭間の戦い」が起こります。
家康は今川軍の先鋒を務め、大高城への兵糧入れを果たしました。そこへ今川義元が討ち取られたとの報告が届きます。
大高城から退却し大樹寺まで逃げ帰った家康は、大樹寺の先祖の墓前で自害しようします。しかし、大樹寺の住職・登誉天室上人に「厭離穢土、欣求浄土」の教えを説かれ、自決を思いとどまります。
また、このとき家康公を狙う野武士集団が大樹寺を取り囲んでいました。
その賊を祖洞という大力の和尚が門の貫木(かんぬき)を振り回して撃退します(大樹寺の陣)。
家康公はこの貫木を「開運の貫木」と名付けました。

このときの貫木が残されています。
ある程度の太さはありますが、長さはそれほどでもない。この程度の武器で良く戦えたなと感じました。

※厭離穢土、欣求浄土
「けがれたこの世から離れて、極楽浄土に生まれ変わることを願う」
平安時代の僧・恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が著した『往生要集』の1章、2章のタイトル。

等身大の位牌

大樹寺にある歴代将軍の位牌の高さは、将軍が亡くなったときの背の高さと同じとされています。東京・芝の増上寺に埋葬されていた将軍の遺骸と位牌を比べるとほとんど差がなかったそうです。

       没年齢 位牌の高さ
初代・家康  75歳   159cm
二代・秀忠  54歳   160cm
三代・家光  48歳   157cm
四代・家綱  40歳   158cm
五代・綱吉  64歳   124cm 
六代・家宣  51歳   156cm
七代・家継  8歳   135cm
八代・吉宗  68歳   155.5cm
九代・家重  51歳   151.4cm  
十代・家治  50歳   153,5cm
十一代・家斉 69歳   156.6cm
十二代・家慶 61歳   153.5cm
十三代・家定 35歳   149.9cm
十四代・家重 21歳   151.6cm
十五代・慶喜 77歳   位牌なし。

没年例と位牌の高さを比べると、初代の家康は長生きで体格も大きい方です。
それに対して、四代将軍・綱吉の位牌は120センチメートルと異常に小さい。あまりにも低い身長がコンプレックスとなって生類憐れみの令などを考えたのかとも思います。また、母親の桂昌院(お玉)とベッタリだったようで、マザコン気味です。これも低身長のなせる技だったのでしょうか。

松平八代墓

松平八代墓とは松平家初代・松平親氏から家康の父・広忠までの墓です。

初代・親氏(生没年不詳)
二代・泰親(生没年不詳)
三代・信光(1404〜1488)岩津松平家の祖。
四代・親忠(1431〜1501)安城松平家の初代。大樹寺を創建する。 
五代・長親(1473〜1544)岩津松平家が衰え、長親の安城松平家が惣領家となる。
六代・信忠(1486〜1531)
七代・清康(1511〜1535)徳川家康の祖父。大樹寺多宝塔を建立する。
 安城から岡崎城に移る。
 織田方の守山城を攻めているときに家臣に惨殺される。
 25歳の若さだった。
八代・広忠(1526〜1549)徳川家康の父。
 父・清康が殺されたときはわずか10歳程度だった。
 岡崎城を追われ今川家に保護を求める。
 後に岡崎城を取り戻し、竹千代(家康)を人質に出す。
 24歳で死去。

松平八代墓
多宝塔

歴代の松平家当主のエピソードを調べると、松平家は決して強い一族ではなかったことがうかがえます。
父・広忠が亡くなったとき、家康はわずか6歳。この逆境からよくぞ将軍にまで上り詰めたと思います。大樹寺で「厭離穢土、欣求浄土」の教えを授かり、野武士集団から守ってもくれたという大樹寺での経験は家康の心に刻まれたに違いありません。
だからこそ、先祖が眠る大樹寺に位牌を置くよう遺言したのではないかと思います。