宮本武蔵の生誕地 高砂

宮本武蔵の生誕地と名乗りを上げているのは

  • 高砂市米田町
  • 兵庫県太子町宮本
  • 岡山県大原町宮本

の3箇所です。
宮本武蔵は五輪書に播州出身と書いている、宮本武蔵の養子 伊織が米田の天神社や加古川の泊神社に寄進を行っていることもあって、播州に深い関わりがあったことは確かだと思われます。
Googleマップで宮本武蔵に関した史跡を見つけたので高砂市米田町に行ってみました。

田原家跡の石碑

米田町の丹陽信用金庫の迎え側に、宮本武蔵の生家の碑「田原家跡の石碑」があります。
この碑に田原家の歴史が記されています。


ここは米田村の庄屋であった田原家の敷地の一部とされている。
田原家は戦国大名 赤松家を祖先とし、赤松円心より四代目の赤松持貞の代に姓を田原と改め、代々米田の地に住むことになった。
田原家は武家としての人材も輩出した。
天正十一年(1582)に宮本武蔵が生まれている。武蔵の兄である久光の子は、それぞれ宮本伊織、小原玄昌、田原正久と称して三家に分かれた。
宮本家は小倉藩の家老として仕えた。小原家は代々医師として続いている。田原家は米田村の庄屋として栄えた。

宮本武蔵・伊織誕生の地碑

次に宮本武蔵・伊織誕生の地碑の方へ行きました。場所は米田天神社の迎え側です。

旧肥後熊本藩主細川家17代当主 細川護貞氏による書が刻まれた大きな石碑があります。

平成元年に建てられました。

石碑の周りにはいろいろなものがあります。

金色に光って目立つのは五輪司供養廟。
「太極 土を生じ、太易 水を生じ、太初 火を生じ、太素 風を生じ、太始 空を生じ
此の五大法則の輪廻を五輪と称し、大宇宙の實体であります」とのこと。

五輪司供養廟

宮本武蔵と伊織生誕についての説明があり、「播州高砂は生誕の地、作州大原は修練の地、豊前小倉は大成の地、肥後熊本は終焉の地」と書かれていました。

左の石碑は宮本武蔵の直筆
右の石碑は「二刀流の両手ここから振り始め」の句碑
田原、宮本家父祖の地碑
独行道碑

独行道は、宮本武蔵が亡くなる7日前に弟子の寺尾孫之丞に渡した武蔵の生き方を21か条に記した書です。

米田天神社

武蔵の地碑の前に米田天神社があります。
米田はもともと米堕と書いて、一乗寺を開山した法道仙人が空鉢を飛ばして、播磨灘の船から托鉢のお米をもらったときに、米俵が落ちたことが地名の由来と伝えられています。

武蔵の甥 宮本伊織が寄進した社殿、大山久太郎政次が寄進した石燈籠が残っています。

宮本伊織の建立による社殿
大山久太郎政次寄進の石燈籠

西行寺

西光寺に宮本武蔵・伊織の像があります。鎌倉時代の建治元年(1275)のお寺です。

庭は五輪の庭と名付けられ、宮本武蔵と伊織の像があります。

像の土台には文武両道と記されています。
宮本武蔵は五輪書を記しました。また、明石には宮本武蔵が設計したという庭が残っています。養子  伊織は小倉小笠原藩の筆頭家老を務めました。
ふたりとも単に強いだけの人間ではなく、文武どちらも極めた優れた人物だったと思います。

宮本武蔵がこんなに身近なところにいたなんて知りませんでした。

独行道

一、世々の道をそむく事なし。
一、身にたのしみをたくまず。
一、よろづに依枯(えこ)の心なし。
一、身をあさく思、世をふかく思ふ。
一、一生の間よくしん(欲心)思はず。
一、我事におゐて後悔をせず。
一、善悪に他をねたむ心なし。
一、いづれの道にも、わかれをかなしまず。
一、自他共にうらみかこつ心なし。
一、れんぼ(恋慕)の道思ひよるこゝろなし。
一、物毎にすき(数奇)このむ事なし。
一、私宅におゐてのぞむ心なし。
一、身ひとつに美食をこのまず。
一、末々代物なる古き道具所持せず。
一、わが身にいたり物いみする事なし。
一、兵具は各(格)別、よ(余)の道具たしなまず。
一、道におゐては、死をいとはず思ふ。
一、老身に財宝所領もちゆる心なし。
一、仏神は貴し、仏神をたのまず。
一、身を捨ても名利はすてず。
一、常に兵法の道をはなれず。