宮本武蔵修練の地・龍野御坊

たつの市に宮本武蔵修練の地というのがあるのを見つけました。
武蔵が生まれたのが高砂市米田町または太子町宮本(他に美作の説あり)。
修練したのがたつの市。

武蔵が修練した場所はたつの市の龍野御坊 圓光寺というお寺です。

龍野御坊 圓光寺山門
本堂

門を入ったところの建物。お城みたいです。

武蔵修練の地の石碑がたっています。龍野藩第15代当主脇坂研之氏の書です。

圓光寺のホームページ(enkoji.com)には圓光寺と宮本武蔵の関係が詳しく説明されています。

  • 武蔵13歳のとき、佐用平福で新当流兵法者有馬喜兵衛に勝った。
  • 14歳から約2年間圓光寺道場で鍛錬した。
  • その後、武者修行に出、但馬の兵法者秋山新左衛門に勝った。
  • 慶長5年(1600)武蔵17歳のとき、関ヶ原合戦に出陣したが、戦に敗れ龍野へ帰った。
  • この頃の圓光寺住職は第六代多田祐仙であった。
  • 多田源氏の系譜を継ぎ、石山本願寺の法難にも果敢に戦った当時の圓光寺では、寺の武芸道場で「圓光寺流兵法」を伝えていた。
  • 武蔵は圓光寺道場で圓光流の兵法を学んだ。
  • 武蔵は美作で過ごした少年時代に養父から右手に太刀、左手に十手槍を持つ刀槍術を習っていたので、その二刀方式を圓光流に加え、「圓明一流」という武蔵独自の兵法を圓光寺道場で完成させた。
  • 二刀によって描く「圓」に完全無欠さを表し、「明」には並みの人に見えないものを見分ける明るさを表したものと伝えられている。
  • 太刀と小刀の二刀で戦う武蔵の兵法は両手に利き手並み手の力を発揮させるのが基本で「馬上で手綱と太刀を持つ」「狭い場で戦う」「大勢に囲まれる」場面に有効だとしていた。
  • 武蔵が圓光寺道場で鍛錬していた3年の間に京へ上って吉岡一門と戦った。百人近い吉岡勢に闘い勝ったのは二刀流の成果だった。
  • 圓光寺に帰った武蔵は慶長10年(1605)奥座敷で瞑想しながら初めての兵法書『兵道鏡』を書き上げて武蔵流兵法を確立し、地侍の落合忠右衛門に「圓明一流の兵法」の印可状を与えてた。
  • 武蔵は巌流島の決闘を前にして訪れ、佐々木小次郎を相手に想定した鍛錬を行ったと伝えられている。
  • しばしば圓光寺を訪れて門弟を指南し、多くの弟子に印可を与えた。中でも圓光寺第五代祐應の三男多田半三郎が弟子として知られている。

圓光寺の歴史もホームページに説明されています。

開基は多田祐全、摂津多田(現在の川西市)の生まれ、多田(源)満仲の子孫、源家菩提の為、出家して天台宗の学僧となる。後に蓮如上人の教化を受け浄土真宗に帰依し蓮如上人の直弟子となる。
 文明十六年(一四八四年)蓮如上人の命により、播磨の国英賀に来たり、英賀城三木家の帰依を受け道場を開く。その道場を後の人は「文明道場」と呼ぶ。
道場は城の西北・人丸町(現在は夢前川の河川敷)に在り、文明年間より天正年間まで英賀に在住した。文明道場が出来て後、播磨の国に浄土真宗が広まり、文明道場は播磨浄土真宗の始点とされている。
文明道場は後に圓光寺と号し、天正六年(一五七八年)豊臣秀吉の命により龍野に境内を賜る。江戸時代に御坊に列せられ龍野(玉川)御坊と称し、播磨六坊の一つとして現在に至っている。

圓光寺のホームページ(enkoji.com)より

これを読むと、圓光寺はもともとは英賀にあったことがわかります。たつのに移ったのは英賀城落城と関係があるのかもしれません。
地元の歴史がわかってくると、いろんなことがつながっていることを教えられます。