慈眼寺・ねずみ小僧次郎吉の墓

慈眼寺は大化四年(648) に法道仙人により創建されたと伝えられています。
法道仙人は本当にたくさんのお寺を開いています。

その後、慈眼寺は一時荒廃しましたが、暦応二年(1339)に播磨の守護・赤松円心によって再興されたといいます。

秋には紅葉の名所になるそうです。

慈眼寺への入り口です。ここから参道を走っていくと祝融山慈眼寺と刻まれた石標がありました。

七福神が船に乗っています。
祝融山慈眼寺の石柱

山門へ続く参道はとてもきれいです。秋の紅葉では、さらにきれいになるのでしょう。

参道
山門

落ち着いた佇まいの本堂。境内もきれいでした。

鐘楼

鐘には鎌倉時代の延慶二年(1309)の銘があります。
もともとは加古川市神吉町の佐伯寺の鐘でした。羽柴秀吉が神吉城攻略後、慈眼寺に移しました。そして、三木城攻めで慈眼寺の裏山に布陣した秀吉側の武将・有馬法印則頼が陣鐘として使ったといいます。

 庭にはたくさんの石仏が並びます。

 奥に進んでいくと鼠小僧次郎吉の墓がありました。

明治のはじめに慈眼寺の住職が東京両国の回向院から分骨したものだそうです。

墓石の破片を持っていると賭け事に勝つといういわれがあり、墓を削る人が多いのでしょう。墓石を削られないようにするため、祠で覆われています。

鼠小僧次郎吉について、お寺の資料によると以下のように説明されています。

寛政7年(1795)ころ〜天保三年(1832)
江戸三座の一つ、中村座の木戸番の長男でした。建具職人となりましたが博打に身を崩してやがて無宿人となります。
小さな体と身軽を活かして、文政四年(1821)頃より大名、武家屋敷を専門に忍び入り、人を傷つけることなく現金だけを盗みさりました。
文政八年(1825)一度は捕まって、入れ墨中追放の刑を受けました。
しかし、また盗みを始め、天保三年(1832)日本橋浜町の松平宮内小輔邸に忍び込んだところを捕縛され、北町奉行所で取り調べを受けました。
同年8月18日、裸馬に乗せられて江戸市中を引き廻しののち、鈴ヶ森で処刑されてさらし首(獄門)になりました。

こういうお寺に、どうして鼠小僧?と思いました。
面白い住職がおられたようです。