谷大膳の墓・平田砦の戦い

秀吉方武将の谷大膳の墓を訪問しました。
谷大膳は平田砦の戦いで討ち死にを遂げた秀吉側の武将です。 

天正七年(1579)9月、三木城を取り囲んだ秀吉軍と三木城に兵糧を入れようとする別所・毛利軍との間に平田砦の戦いがに起こります。

三木城が秀吉軍に包囲され、兵糧攻めにより城内の食料が尽きた。
この状況を打破すべく、毛利勢は食料を運ぶ計画を立てた。
現明石市魚住には毛利の食料基地があった。
魚住から三木城まで約15km。秀吉が築いた包囲網をかいくぐって食料を三木城の北、平田まで運んだ。
平田には秀吉方の砦があり、守っていたのは谷大膳。そこへ密かに忍び寄った毛利勢が襲いかかる。
三木城からも別所吉親(三木城主 別所長治の叔父)が三千余騎で戦いに加わる。
谷大膳は身長八尺(180cm)の大男。部下を励まし、自らも薙刀をふるって戦ったが、衆寡敵せず、身に50箇所もの傷を受け戦死。
平田砦が襲われたことを知った秀吉は、平井山の本陣から千余騎で救援に駆けつける。
さらに、周辺の付城からも参戦し、三木攻めで最大の戦いとなった。
この戦いでは、三木勢は大将格73人、兵士800余人が討ち取られ、秀吉方の大勝に終わった。

墓への入り口
坂を登ると墓が見えてきます

谷大膳の墓は石柱で囲まれ、扉に彫刻がなされています。

周りには平田大膳の部下のお墓もありました。

谷大膳の嫡男 衛友は、秀吉から丹波山家で1万六千石を与えられました。
徳川においても本領を安堵され、明治に至るまで続きます。
明治維新では官軍につき、子爵に列せられています。