平忠度 腕塚

平家の武将 平忠度を祀る神社、塚が明石人丸にあります。

平忠度は平清盛の異母弟です。
武人であるとともに、勅撰和歌集にも選ばれる歌を読んだ歌人でした。
一ノ谷の戦いで源氏に敗れ、逃げる途中、明石で源氏の武将・岡部六弥太忠澄と戦いの末に討ち死にしました。

腕塚神社縁起に次のように記されています。

寿永三年(一一八四)二月七日、源平一の谷の戦いに敗れた薩摩守平忠度は、海岸沿いに西へ落ちていった。源氏の将の岡部六弥太忠澄は、はるかにこれを見て十余騎で追った。忠度に付き従っていた源次ら四人は追手に討たれ、ついに忠度は一人になって明石の両馬川まできた時、忠澄に追いつかれた。二人は馬を並べて戦い組み討ちとなる。忠度は忠澄を取り押さえ首をかこうとした。忠盛の郎等は主人の一大事とかけつけ、忠度の右腕を切り落とす。「もはやこれまで」と、忠度は念仏を唱え討たれる。箙に結びつけられた文を広げると「行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度」とあり初めて忠度と分かった。敵も味方も、武芸、歌道にもすぐれた人を、と涙したという。清盛の末弟の忠度は、藤原俊成に師事した歌人であった。
(以下略)

忠度公は熊野育ちで力も強く、武人としても優れた人だったようです。

両馬川の戦いの碑

忠度公と岡部六弥太が戦った両馬川。
暗渠になっているので川を見ることはできません。
JRの高架下に両馬川の戦いの碑が残っています。

忠度塚

忠度公の亡骸を埋めたところと伝えられています。

腕塚神社

切り落とされた忠度公の右腕が祀られ、腕の病に霊験あらたかといわれています。

腕塚神社縁起によると、このあたりは右手塚(うでづか)町といっていましたが、天文町に変更されています。
しかし、自治会名は天文町右手塚自治会で、右手塚の名が残っていました。
腕塚神社は小さい神社ですが、いつまでも残って欲しいと思います。