赤穂の花岳寺は赤穂浅野家初代の浅野長直公によって建立されました。
松の廊下の刃傷事件後、歴代藩主の菩提寺になりました。境内には宝物館、義士木像堂、墓所があり、見どころ満載です。
この鐘は鳴らずの鐘と呼ばれています。
二代目藩主 浅野長友公が父 長直公のために鋳造したものです。
赤穂義士四十六士の切腹の知らせが赤穂に届いたとき、町民は四十六士の死を悲しみ、鐘を延々とついたそうです。
「それ以来、音を失って50年間鳴らなかった」、「寛政9年(1797)に改鋳された」ということです。
この松は二代目で千手堂内に初代「名残の松」の幹があります。
初代の松は昭和2年に枯れましたが、樹齢310年の大木でした。
本堂の天井に描かれた「竹に虎」は大きさは幅1間半、長さ5間。迫力があります。
安政元年(1854)寅年に赤穂の画人 法橋義信が描きました。
明治25年赤穂大水害に遭われた方々への菩提供養のために町村の有志が千躰観音菩提像を奉納し、毎年8月10に法要が行われたと伝えられています。
明治25年の水害は被災家屋3,549戸、堤防決壊339箇所、死者89名という大きな災害だったようです。
赤穂市のホームページには以下の話が載っていました。
- 赤穂はたびたび大きな洪水被害にあっていた。
- 江戸時代初期の地面は今より1m以上も低く、1650年くらいに1度、1800年くらいにもう1度、大きな造成して、嵩上げがなされた。
- 水害は1672年から1764年のおよそ100年間で18回発生した(だいたい5年に1度)。
- しかし1807年の大被害を最後に、水害はおよそ100年に1回の割合になった。
- その後記録に残る災害は、1892年(明治25年)の明治大水害、1976年の台風17号洪水、2004年の台風被害である。
初代「名残の松」の幹、写真が展示されています。大石内蔵助もこの松を見たのでしょう。
野口雨情の碑があります。野口雨情が赤穂に来たときに造った歌のようです。
春のあけぼの 花なら桜
武士の鑑ぢや 赤穂義士
「昭和11年、野口雨情が民謡行脚の道すがら、4月18日から3日間赤穂に滞在し詩作した十節よりなる赤穂民謡の冒頭第一節である」
義士墓地の方へ入っていくと忠義塚、浅野家霊廟などが並びます。
鳳源寺は広島・三次の藩祖 浅野長治公が寛永10年(1633)に建立した浅野家の菩提寺です。
浅野長治公の娘・阿久里は松の廊下刃傷事件の浅野長矩公の正室でした。
鳳源寺には大石内蔵助手植えの「枝垂れ桜」があるそうです。
浅野家三代の墓があります。
赤穂初代藩主 浅野長直公、二代藩主 浅野長友公と浅野長直公の父 浅野長重公の3人です。
長重光は常陸笠間藩主でした。
江戸城で刃傷事件を起こした三代目の浅野長矩公の墓は東京 泉岳寺にあります。
近藤正純は甲州流軍学を修めた軍師として赤穂城の縄張りを行い、赤穂城を完成させました。
浅野家、永井家の後を継いだ森家の墓があります。
浅野家改易後、永井家が赤穂藩主となります。
しかし、5年後の宝永3年(1706)永井家は転封となり、森家が赤穂藩主となります。
森家は明治維新まで赤穂藩を治めました。
赤穂義士、浅野家、森家と花岳寺は赤穂の歴史が詰まったようなお寺だと思いました。