児島範長の墓・六騎塚

太平記の忠臣・児島範長(和田範長)にまつわる遺跡が高砂市に残っています。

延元元年(1336)、足利尊氏が大軍を率いて九州から京を目指して攻め上がりました。
官軍側の備後守・児島範長(和田範長)、児島高徳らは本隊に合流すべく備前三石を越え、夜通し駆けて赤穂坂越浦に進出。
負傷していた高徳は知人の僧に預け、範長らは先を急ぎます。
足利側がこれを追撃。
坂越から高砂・阿弥陀までの間、死闘を繰り返すこと18度。
児島勢は主従ただ六騎のみとなり、最期は阿弥陀の辻堂に駆け込み、全員自害します。

六騎塚

六騎塚は児島範長主従六人の自害を弔って建立された塚と伝えられています。
塚は亀趺(きふ)とよばれる亀の台に建てられ、正面は「備後守児嶋君墓」、裏は「嘉永三庚戌年五月十九日 左和田清左衛門範一建之」と刻まれています。
嘉永三年は1850年。ペリーが黒船でやってくる3年前です。

六騎塚

塚の裏にはお地蔵様がありました。
児島範長と一緒に自害した従者を祀っているのでしょうか。

児島範長の墓

六騎塚の近く、大日寺跡に児島範長の墓と伝えられる五輪塔が残されています。

五輪塔は暦応5年(1342)に、石仏は永正4年(1507)に建てられています。

伝児島範長の墓
石仏

児島範長が自刃したのは延元元年(1336)。五輪塔が建立されたのは暦応5年(1342)。
五輪塔を建て、範長の菩提を供養したのでしょう。

児島範長の遺跡以外に、姫路には塩冶判官の妻の焚堂、加古川に七騎塚と、この近辺には南北朝の戦いの遺跡があります。
激しい戦いが繰り広げられたことが感じられます。