そでもぎ地蔵

姫路市福泊に「そでもぎ地蔵」というお地蔵様があります。
お地蔵様を納めた御堂の前にある看板では次のように説明されています。

縦一四四センチメートル、横八六センチメートルの凝灰岩製の家形石棺の蓋石に像高六五センチメートルの地蔵立像が浮彫りされ、像の左右の刻銘から貞治三年(一三六四)沙弥西信によって造立されたことがわかる。
伝説によれば、この地蔵の前でつまずいて転んだ者は、着物の片袖をちぎって供えなければ凶事が起こるといわれ、転んだ人が厄払いのために袖を供えたことから、その名が付いたといわれている。
平成四年三月 姫路市教育委員会

説明看板より

袖もぎ地蔵のある坂道でつまずいたり転んだりした人は袖を供えないと災いが起こるという話は、昔話の三年坂(転ぶと三年しか生きられない)と似ていると思いました。

ところが、明治のかたりべ集という小冊子では、全く違う話が述べられていました。
その話を紹介したいと思います。

袖もぎ地蔵のお堂

まず、次のように「女の念」ということが示されます。

播陽万宝智恵袋には「袖もぎ地蔵は執心深き女の念」とあり、通行人がもしこの地蔵の前で躓き倒れたときは、着物の片袖をもぎ取って帰らなければ、必ず凶事が起るといい伝えています。
明治のかたりべ集より

「そでもぎ地蔵」は2人の女性、曽天(そで)、茂木(もぎ)と「そでもぎ地蔵」を作った沙弥西信の悲しい話でした。

昔、姫路市の大潮と的形に挟まれた地は藤井の浦と呼ばれ的形椿城がありました。室町幕府が開かれたこと城主・大塩次郎景範の末子の西信は出家し、金剛山寿福寺の住職になりました。
曽天は椿城の家老の娘。美しい女性でした。
木場の木庭家の娘、茂木(もぎ)もまた美しい女性でした。
その二人が、西信に恋してしまいます。
しかし、仏道に励む西信は二人の思いを受け付けません。
二人の思いは募ります。そして互いが恋路の邪魔をしている考え、喧嘩、切り合いになり、傷つきます。
西信は二人を寺に連れ戻し、仏道に生きる自分は女犯を犯すことはできないと諭します。
二人は自分の非を悔い、仏門に入ります。
なんと二人は、仏の教えにより大願をたてたいまは早く仏のもとへ行こうと、池に身を投げてしまいます。
二人を哀れに思った西信は亡骸を手厚く葬り、自らの手で石棺をつくりました。
そして「曽天茂木延命地蔵(そでもぎえんめいじぞう)」と刻んだ蓋をして地蔵尊を安置しました。

この話は貞治四年(1365)と言い伝えられているそうです。

「そでもぎ」なので「袖を取る」ということだと思っていましたが、「そでもぎ」は二人の女性、曽天(そで)、茂木(もぎ)から来たものでした。

明治のかたりべ集に、「地元の木場東老人クラブでは、遠くから延命地蔵に参詣してくる信者のために、御堂を再建し、室内をいつもきれいにして、お地蔵さんを通じて話し合いをし、交流の場としています。」と書かれています。

私が訪問したときも御堂はきれいに掃除されていました。

明治のかたりべ集は何十年も前に出版されたものですが、今でもその時と同じようにきれいにされていることに、驚くとともに「そでもぎ地蔵」を大事にされているんだと感じました。
本当にすばらしいと思いました。

この記事は明治のかたりべ集を参考にさせていただきました。