次の説明がなされています。
宮本武蔵は、元和4年(1618)明石藩主 小笠原 忠真の客分として明石に迎えられました。
明石城の築城 が始まると、明石城下の町割を担当するとともに、作庭 にもその才を発揮し、 明石城の樹木屋敷やこの珠院の 庭園の作庭に当たったと伝えられています。
この庭園は本堂の前方に位置する枯池枯山水庭園です。
全体的にみて、小規模ではあるが、石組を中心とし て立面構成を重視し、視点による庭景の変化と遠近感を取入れ、水墨画を思わせるような造りとなってい ます。
境内に入ると庭があります。
そんなに大きな庭ではありません。
庭園の要素が組み込まれており、力強さを感じる庭と解説されています。
この庭を作ったとき武蔵は34歳(元和4年 / 1618)。巌流島の戦いは慶長17年(1612)です。30歳を超えた武蔵は剣術の戦い(武)ではなく、文の道に歩みを変えたようです。