赤穂義士供養墓碑・大悲山 観音寺

大悲山 観音寺山門

大悲山 観音寺には赤穂義士四十七士の墓があります。

赤穂とは遠く離れた加東市に赤穂義士の墓があるのが不思議でしたが、お寺にある説明看板、加東市のパンフレットから次のような経緯がわかりました。

  • 赤穂浅野初代藩主・長直は子がなかったので浅野長賢を養子としたが、実子が生まれたので、寛文11年(1671)に加東市内 11ヶ村3500石を長賢に分知した。
    長賢は家原村に陣屋を構えて旗本家原浅野氏の祖となった。 
  • 観音寺は貞享3年(1686)に家原浅野家の菩提所として創立されたと伝えられ、浅野家の香花所として崇敬された。
  • 元禄14年(1701)浅野長矩公の殿中刀傷により赤穂浅野氏は断絶となったが、家原浅野家は明治まで 7代 200年続いた。
  • 赤穂四十七士の義挙から150年を経た弘化4年(1847)、善龍院住職・明範が四十七士の墓所建設を呼びかけた。
  • これに応じて家原・穂積両陣屋をはじめ、近郷近在の多くの有志から浄財が寄せられ、家原浅野家7代藩主・浅野長祥と相談の上、観音寺に墓所が建立された。
  • 廃藩以後、寺は廃寺同様に荒れたが、明治17年、西田玄尼によって再興された。
  • 今日まで毎年12月14日、赤穂義士の忠誠を讃えて義士祭が盛大に営まれる。
本堂

四十七士の墓は本堂の奥にあります。

墓の配置図

中央に大石内蔵助、主税親子の墓が並び、少し奥に浅野家4代の碑。まわりに他の義士の墓が並びます。

墓は特に装飾もなく素朴な感じです。

討ち入りから150年後に建てられた墓。
善龍院住職・明範の呼びかけに応じて、多くの有志が寄付をしたといいます。家原浅野家の領内には討ち入りを誇らしく思っていた空気があったのかも知れません。また、家原浅野家の政治も良かったので、庶民までもが寄付をしたいと思ったのではないかと思いました。