八坂神社

京都祇園にある八坂神社は全国の八坂神社の総本山です。
素戔嗚命(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神がお祀りされています。
櫛稲田姫命は素戔嗚命の妻、八柱御子神はお二人の子供です。

神社の創建については八坂神社のホームページで次の2つの説が紹介されています。

  1. 斉明天皇2年(656)、朝鮮から来朝した伊利之(いりし)が新羅国牛頭山に鎮まる素戔嗚尊を祀ったことにはじまる。
  2. 貞観18年(876)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまる。

1000年以上の歴史がある神社ですね。

ご祭神の素戔嗚命はインドの神様・牛頭天王であると考えられています。その牛頭天王は「祇園精舎」の守護神です。八坂神社が古くは祇園社と呼ばれたのはここから来ています。

そして、牛頭天王と蘇民将来の間には茅の輪くぐりにつながる物語があります。

牛頭天王が蘇民将来と巨旦将来の兄弟に一夜の宿を乞うたときに、金持ちの巨旦将来は断ったが、貧しい蘇民将来は牛頭天王を粟飯でもてなした。
牛頭天王は「悪疫が流行るが、腰に茅の輪をつければ逃れられる」と教えて去った。
まもなく疫病が流行ったが、蘇民将来とその家族は無事だったが、巨旦将来の一族は死に絶えた。

牛頭天王(素戔嗚命)をお祀りする八坂神社は疫病退散の神様として信仰されるようになります。
貞観11年(869)に疫病が流行したとき、これを牛頭天王の祟りとして、祇園社の神輿を繰り出して疫病退散の祈祷を行いました。これが祇園祭の始まりになりました。
祇園祭は中世に途絶えましたが、応仁の乱ののち明応9年(1500)に復興。日本三大祭の一つになっています。

東大路通に面した西楼門。
応仁の乱で焼失しましたが、明応6年(1497)に再建されました。
切妻造の楼門で、夜叉門、駕籠門と呼ばれます。
国の重要文化財にして指定されています。

西楼門

拝殿と本殿はひとつの屋根で覆われています。この構造を「祇園造り」といい、承平5年(935)から寛和2年(986)の間に成立したそうです。1000年以上の歴史を持つ構造です。
現在の本殿は承応3年(1654)に再建されたものです。国宝に指定されています。

本殿、拝殿が一つ屋根に収められている

本殿の下には霊水が湧き、神泉苑に通じる青龍の龍穴があるといわれています。

南楼門は慶応2年(1866)に焼失し、明治12年(1879)に再建されました。
大きな通りに面しておらず、西楼門に比べて少し地味ですが、この南楼門が八坂神社の正門だそうです。
そういえば、本殿は南を向いています。

高さ9.5mの鳥居
南楼門

八坂神社の境内には本殿以外にもたくさんの社殿があります。

本殿の前に舞殿があります。奉納行事はここで行われます。
たくさんの提灯がぶら下げられていて、京都っぽい感じがします。

舞殿

西楼門を入ってすぐのところに疫神社があります。ここでは蘇民将来がお祀りされています。蘇民将来なので祇園信仰そのものの神様です。

重要文化財に指定されています。

疫神社

蛭子社(えびすしゃ)では事代主神(ことしろぬしのかみ)が祀られています。
事代主神は素戔嗚命の孫、大国主命の子で国譲りを承諾した神様です。
商売の神様として信仰されています。

蛭子社

悪王子社では素戔嗚命の荒魂(あらみたま)がお祀りされています。荒魂とは現実に姿を表す霊験あらたかな神様を意味するそうです。素戔嗚命の強い霊力があるのでしょう。

悪王子社

大神宮社では天照大神、豊受大御神が祀られています。
鳥居の横に「御神水」が湧き出しています。
この水は本殿下の龍穴と同じ水脈から来ているといいます。

大神宮社

あまりに多くの摂社があります。。。
1000年を超える歴史なので、エピソードも無限にありそうです。
今回見ることができなかった社殿や遺物、祇園祭などの行事も見てみたいと思いました。