神戸平野・平清盛の足跡

仁安2年(1167)に太政大臣を辞した平清盛公は出家し、10年以上平野に住みました。
その間に大輪田泊の修築、経ヶ島の築造、 対宋貿易などの大事業を行いました。

元永元年(1118)伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれる。
大治4年(1129)12歳で従五位下に任じられる。
長承元年(1132)15歳のとき、父忠盛が武士として初めて昇殿を許される。
久安2年(1146)安芸守となり、瀬戸内の制海権を得る。
保元元年(1156)39歳のとき、保元の乱が起こる。播磨守となる。
平治元年(1159)42歳のとき、平治の乱が起こる。源義朝を倒す。
仁安2年(1167)50歳で、太政大臣に任じられるが、3か月で辞任
仁安3年(1168)病に倒れ出家。浄海入道と名乗る。家督を重盛に譲る。
仁安4年(1169)神戸・福原に「雪見の御所」と呼ばれる別荘を造営。移り住む。
嘉応2年(1170)後白河法皇を福原に迎え、中国・宋人と面会させる。
承安2年(1172)〜安元元年(1175)大輪田泊の修築
治承4年(1180)以仁王の乱を鎮圧。福原に遷都。6ヶ月で京にもどる。
治承5年(1181)熱病で死去

平清盛が福原に住んでいたとき、エネルギッシュに大輪田泊の事業に邁進していたようです。

荒田八幡神社

荒田八幡神社が御鎮座されている土地は高台になっていて、平清盛の弟・池大納言平頼盛の山荘であり、福原遷都の際には安徳天皇の行在所となりました。

荒田八幡神社
福原遷都800年記念と安徳天皇行在所の碑
社殿

清盛像

有馬道を歩いていくと清盛公の像があります。
一つは浄海入道と呼ばれた出家後の姿。もう一つは平治の乱で活躍したことの若い姿でしょうか。清盛といえば浄海入道のイメージを持っていたのですが、保元の乱、平治の乱と戦いに勝ってきた武将でもありますね。

祇園遺跡

「塞神」の碑、「塞神の松跡」の碑という碑が建っています。
「塞神」の碑は、奥平野村を東西に通る古代からの道「古道街道」を通る旅人らの安全を守ってくれる神様(道祖神)の碑です。

塞神」の碑

平安時代末期の貴族の庭園にあった考えられる池の跡が見つかっています。宋から輸入された陶磁器、大量の土器も出土しています。平家の屋敷跡ではないでしょうか。

祇園神社

素戔嗚命(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)をご祭神とする祇園神社。
貞観11年(869)、京都に疫病が流行したとき、このたたりを鎮めるため姫路の廣峯神社から御神霊を京都へお遷しになるとき、神輿がこの地で一泊したのが神社の起源という古い神社です。


清盛公は祇園神社の裏山にあったとされる潮音山上迦寺で、海の響きを聞きながら、その計画を練ったということです。
今はビルしか見えませんが、昔は海が見えたのでしょう。

祇園神社から見る

湊山温泉

祇園神社からすぐのところに湊山温泉があります。源泉かけ流しの天然温泉です。
「山槐記」という日記を残した中山忠親が、清盛邸から湯屋に行ったということを書いています。その湯屋は湊山温泉だったかもしれません。
この温泉に清盛公も来られていたでしょう。

雪見御所

清盛公の邸宅・雪見御所は湊山小学校あたりにあったと考えられています。
雪見御所の北には福原遷都の際の皇居、近くに清盛の息子、宗盛の屋敷があり、このあたり一帯に平家の大邸宅が並んでいたようです。

雪見御所跡の碑

今、神戸の中心地は三宮ですが、福原京が置かれた頃、大輪田泊や福原荘を見晴らすことができる平野が福原京の中心地だったそうです。
ここを清盛公など平家の公達がこのあたりを行き来していたのでしょう。