竹中氏陣屋跡

関ヶ原の隣の垂井町岩手に竹中半兵衛ゆかりの竹中陣屋跡があります。

垂井町岩手は竹中氏の本拠地で、陣屋を構えたのは半兵衛の子、竹中重門です。
重門は関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、戦後は徳川家の旗本として仕え、竹中家は明治維新まで続きました。

残っているのは門だけです。
門の前には竹中半兵衛が座っていました。

竹中半兵衛像

菁莪記念館

竹中家陣屋門から少し離れたところに洋風?の建物がありました。
覗いてみたら菁莪記念館といい、昔の学校跡でした。

竹中家13代当主・竹中重明によって天保13年(1842)に菁莪堂が開校されます。
その後、菁莪義校、菁莪学校、岩手小学校となって現在も続いています。
「菁莪」とは「人材を育成すること、英才の育成を楽しむこと」という意味とのこと。
素晴らしい言葉だと思います。

菁莪記念館

竹中家陣屋門が残っているのは、明治政府が発布した「幕府建造物破壊令」に対して、陣屋門ではなく、菁莪義校の正門であると主張したおかげだそうです。

菁莪記念館には竹中氏、岩手地区の資料が多数展示されていました。

菁莪堂を作り、文武両道の教育を施したおかげで、幕末維新の際には優れた人物を輩出したとされています。

竹中家最後の当主・竹中重固は鳥羽伏見の戦いでは幕府側で戦い、その後、箱館戦争終結前まで幕府側として戦います。
また、官軍の赤報隊が岩手に進出してきた際、竹中家の家臣20名が赤報隊に従軍。偽官軍事件で命を落とすものが出ています。
赤報隊の顛末を考えると哀れです。竹中重固がもっと上手に立ち回っていたらと思います。

五明稲荷社

天正6年 (1578) に有岡城の荒木村重が織田信長に対して謀反を起こしたとき、説得に行った黒田官兵衛は有岡城に幽閉されてしまいます。
官兵衛からの連絡が途絶えたため、信長は官兵衛が裏切ったと考え、官兵衛の子・松寿丸を殺すように命じました。しかし、官兵衛と親交があった半兵衛は松寿丸を岩手に逃し、家臣の不破矢足の屋敷に匿いました。

不破矢足の屋敷跡に五明稲荷社が鎮座されています。

五明稲荷社
いちょうの木

境内に大きないちょうの木があります。この木は官兵衛の疑いが晴れ、松寿丸がこの地を離れるときに植えたと伝えられています。

官兵衛の子・長政(松寿丸)と半兵衛の子・重門は、関ヶ原の戦いでは陣を同じくして戦いました。
不思議な縁です。