宝暦の治水・海蔵寺

海藏寺

法性山海蔵寺のご本尊は十一面観世音菩薩。創建は天正2年頃(1574)というは曹洞宗の寺です。
門に「薩摩義士墓所」とあります。
桑名に薩摩の墓所がある?
それも義士となっている?
海藏寺と薩摩にどういう関係があるのか、全くわからないまま、おまいりさせていただきました。

境内には「宝暦治水薩摩義士」と書かれたたくさんの青い幟が立っています。

「宝暦治水薩摩義士」の青い幟

境内の隣には大きな「宝暦治水薩摩義士之碑」が建っており、そこを進むと薩摩義士の墓がありました。

宝暦治水薩摩義士之碑
薩摩義士墓所

宝暦治水のことは全く知らなかったのですが、今回の訪問をきっかけに調べてみました。

宝暦治水とは、幕府が薩摩藩に命じた伊勢湾に注ぐ河川の治水工事で、宝暦4〜5年(1754〜1755)にかけて行われました。

関東方面に行くときは名古屋の手前で揖斐川、長良川、木曽川という大きな川を渡ります。普段、穏やかな川を見て、この川が氾濫するかも?ということは考えたことがありません。
しかし、江戸時代は洪水が頻繁に起こっていました。

宝暦治水時の図を見ると、川の流れが入り乱れていて、すぐにも氾濫が起こりそうです。
また、木曽川左岸に作られた御囲堤によって、洪水が増加したそうです。御囲堤は御三家である尾張藩を守るもの。御囲堤以外の堤防は、御囲堤より3尺低くすることを命じ、増水があっても低い側の堤防から氾濫させて尾張藩に洪水被害が出ないようにしていました。ひどい話です。

宝暦治水時の河川

幕府に命じられた薩摩藩は家老の平田靱負を工事責任者とし、約1000名の藩士を派遣しました。
そして、総延長30里(120km)という堤防を完成させます。工事期間は1年3ヶ月。
重機のない時代に、短期間でこれだけの工事をやってのけるとは、人間業とは思えないすごさがあります。

しかし、過酷な工事、劣悪な環境、疫病(赤痢)、幕府の理不尽な仕打ちに対する抗議の切腹などで、割腹自殺55名、病死34名という犠牲者が出ました。
海蔵寺には23名の割腹自殺した藩士が葬られています。
しかし、抗議の切腹は「腰の物にて怪我」で死んだと届けられました。抗議していることを幕府に知られると、咎めを受けるかもしれないというおそれからです。
抗議するための切腹や、切腹したことが公表されないとは、悲惨なことです。

薩摩義士の墓、中央は平田靱負供養塔
海蔵寺の平田靱負像

工事責任者を務めた平田靱負は工事完了検分が終わり、工事が終わったことを報告する手紙を書いた翌日、亡くなりました。
多くの犠牲者を出したこと、巨額の費用を使ったことの責任を取るために自刃したと考えられています。

桑名と薩摩という想像もしなかった組み合わせから、宝暦治水を知ることができました。工事に携わった方々に感謝したいと思いました。