青葉の笛・須磨寺

須磨寺の正式名所は上野山福祥寺。
山陽電鉄の須磨寺駅で下車し、5分ほど歩くと寺に到着します。

須磨寺駅前には、一の谷合戦で平家の武将・平重衡が捕らえられたという「とらわれの松跡」があり、須磨には一の谷合戦に関連する遺跡が多く残っています。

平重衡とらわれの松跡
須磨寺参道

須磨寺のホームページには寺の由緒がしるされています。

※ 須磨寺略歴縁起より
天長年間に漁夫が和田岬の海中から得たという聖観世音菩薩像を安置するために、淳和天皇の勅命により、会下山(えげやま、現兵庫区)に恵偈山北峰寺が建立された。
仁和2年(886)に、光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が現在の地に上野山福祥寺を建立し、北峰寺より聖観世音菩薩像を遷し、本尊としてお祀りしたのが、須磨寺の開基と伝えられる。

※ 当山歴代より
本尊聖観世音は嘉応元年(1169)源頼政が安置した。

須磨寺ホームページより

天長年間:824〜834年
淳和天皇:在位823〜833年
光孝天皇:在位884〜887年
当山歴代:摂津国八部郡福祥寺古記録。南北朝時代から江戸時代にかけて歴代住職が書き継いだ。
源頼政:平安時代末期の武将。鵺退治で有名。保元、平治の乱では平清盛に味方する。治承4年、以仁王とともに打倒平氏の兵を挙げたが、戦いに敗れ、宇治平等院で自刃した。

仁王門

仁王門

仁王門は源頼政が再建したもので、仁王力士像は運慶、湛慶の作と伝えられています。

源平の庭

仁王門をくぐって中にはいっていくと、平敦盛と熊谷直実の一騎討ちを再現した「源平の庭」があります。

源平の庭

沖に浮かぶ平家の船に逃げようとする敦盛。それを呼び止める熊谷直実。
直実は手柄をたてようと敵を探していました。
平敦盛は武士といっても貴族です。それに対して熊谷直実は筋金入りの武士。敵うわけがありません。哀れ、敦盛は熊谷直実に組み伏せられます。
首を取ろうとした瞬間、敦盛の顔を見ると我が息子と同じくらいの若者。この若武者を逃そうとも考えたが、源氏の兵が近寄ってきています。自分が逃しても、誰かがこの少年を殺すであろうと考えた直実は泣く泣く敦盛の首を取った。

敦盛はこのとき16歳。彼の遺品に笛がありました。
弘法大師空海が唐に留学したとき、修行を積んだ青龍寺笛を作りました。帰国後、空海が嵯峨天皇に献上したものが、平家に伝わり、敦盛のものとなっていました。

宝物館・青葉の笛

須磨寺宝物館に、その笛が展示されています。

右・青葉の笛、左・高麗笛
赤旗名号(法然上人筆)

「赤旗名号」というのぼりが展示されています。
熊谷直実は後日、出家し、浄土宗宗祖である法然上人の弟子となりました。そして、敦盛の菩提を祈るために、法然上人にお願いして、平家の赤旗に「南無阿弥陀仏」と書いてもらったものでした。
平家の赤旗に南無阿弥陀仏と書いてもらったということが、直実の心を表している気がします。

「源義経腰掛松」と「敦盛公首洗いの池」

敦盛公の首を洗い清めたという池と、源義経が敦盛公の首実検をするときに座ったという松があります。

「源義経腰掛松」と「敦盛公首洗いの池」

敦盛公墓所(首塚)

ここには敦盛公の首が祀られています。須磨浦公園にある敦盛塚には胴体が祀られています。

敦盛公墓所(首塚)

弁慶の鐘

一の谷の合戦の際、弁慶はこの鐘を長刀の先に掛けて、前には提灯をつるして陣鐘の代りにしたといいます。境内あるのはレプリカで本物は宝物館で展示されています。
「提灯に釣鐘」という釣り合わないものを意味することわざはここから始まったそうです。

弁慶の鐘
宝物館の鐘

源平史跡以外に、三重塔、親子地蔵、奥の院など多くの建物があります。

本堂

本堂は文禄5年(1596)の大地震で倒壊したあと、豊臣秀頼公によって慶長7年(1602)に再建されました。

本堂

三重塔

もともとの三重塔は文禄5年(1596)の大地震で倒壊しました。現在の塔は弘法大師千百五十年御遠忌、当山開創千百年、平敦盛卿八百年遠忌を記念して昭和59年(1984)に再建されたものです。

三重塔

親子地蔵

大正4年、淡路から神戸へ向かう船から川上愛子は2歳のわが子初音を抱いて海に飛び込みました。家庭不和が原因の心中事件でした。この事件は神戸新聞に「須磨の仇波」として連載され、大きな反響を呼びました。
このお地蔵さんは川上愛子、初音親子の霊を慰め、家庭不和に泣く人のないことを願って建立されました。

親子地蔵

奥の院

奥の院には宗祖弘法大師が祀られています。
奥の院までの参道は十三佛・七福神巡りができるということですが、意外とキツイ登山でした。
体力が落ちているかもです。

奥の院

さまざまな見どころがある須磨寺。
大永6年(1526)には本尊、敦盛絵像、青葉の笛を展示。敦盛ゆかりの寺として有名になっていて、笛見料を取っていたそうです。
延宝8年(1680)には「福原びんかがみ」という道中案内記が出版されました。
貞享5年(1688)に松尾芭蕉が「笈の小文」の旅で須磨寺を訪れ、青葉の笛、赤旗名号などの宝物を見ました。そして、拝観料が高すぎると文句を言っています。今の金額に直すと3,000円だったそうです。
たしかに高い。今は無料なので、気楽に見物できます。
須磨寺が源平の遺物を大切に残してくれていることは素晴らしいですが、500年前からお金を取って展示品を見せるというビジネスをやっていることもすごいです。