新宿・花園神社

大鳥居

新宿にご鎮座されている花園神社におまいりしました。

花園神社のホームページなどから、神社と新宿の発展の歴史、神社が残ってきた経緯が少しわかりました。

  • 花園神社は、徳川家康が江戸に入る(1590年)以前に大和吉野山より勧請されたといわれている。
  • 新宿は「内藤新宿」とか「追分新宿」とか呼ばれていた宿場町で、その名は「内藤家屋敷地前にできた新しい宿」を意味していた。
  • 内藤氏は平将門を討ち取った藤原秀郷の末孫。家康の関東移封に先立ち、甲州街道と鎌倉街道の交差点となっていた現在の新宿二丁目あたりに陣屋をおいた。
  • 家康から内藤氏は新宿の地を拝領。その地が現在の新宿御苑。
  • 花園神社は寛永年間(1624~1644)以前は今の伊勢丹デパート付近にあった。
  • 寛永年間に社地が朝倉筑後守という旗本の下屋敷に囲い込まれため、幕府から現在の場所を拝領した。
  • 拝領した土地は、たくさんの花が咲いていた尾張藩下屋敷の庭の一部だった。そのため、花園稲荷神社と呼ばれた。これが社名の由来とされている。
  • 元禄11年(1698)、甲州街道最初の宿・高井戸宿が日本橋から遠かった(約4里=16km)ため、内藤氏が幕府に返上した屋敷地に宿場町「内藤新宿」が開設された。
  • 花園神社は宿場町・新宿が栄えるとともに、総鎮守として多くの人々の信仰を集めた。
  • 安永9年(1780)と文化8年(1811)の大火で焼失した社殿を再建するために境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博した。
    花園神社と芸能の縁はこの頃から始まった。
  • 花園神社の名が史料に初めて登場するのは享和3年(1803)。大火に遭った社殿復興を願って内藤新宿町より奉納された額面に「花園社」と記されていた。
  • 当時、花園神社は稲荷神社または三光院稲荷とも呼ばれ、さらに江戸時代には地名にちなんで四谷追分稲荷とも呼ばれていた。
  • 三光院稲荷と呼ばれたのは、花園神社には三光院が合祀され、住職が別当を兼ねていたためといわれている。
  • 明治元年の神仏分離令により三光院は花園神社と分離され、廃絶となった。
  • そして、花園神社は「村社稲荷神社」が正式名称となった。これは神名帳を提出した際に、花園の文字を書き漏らし、「稲荷神社」で届出をしたためという。
  • 明治18年(1885)、日本鉄道品川線(赤羽~品川)が開業し、新宿駅ができた。
  • 明治22年(1889)、南豊島郡「内藤新宿町」が発足。
  • 明治29年(1869)、豊多摩郡内藤新宿町となる。
  • 大正5年(1916)、東京府知事に対し社号の改名願を提出、「花園稲荷神社」となった。
  • 大正9年(1920)、東京市四谷区に編入され、「内藤新宿」は消滅。
  • 昭和22年(1947)、四谷区、牛込区、淀橋区の三区が統合され、「新宿区」が誕生。
  • 昭和40年(1965)、「花園神社」が正式名称となった。

拝殿は昭和40年に建設されたもので、朱色がきれいでした。
ご祭神は稲倉魂命(うがのみたまのかみ)、日本武尊、受持神の三柱です。

拝殿

花園神社は雷電神社、大鳥神社を合祀しているので、扁額は3つありました。

大鳥神社を合祀しているということで、花園神社では11月に酉の市が開催されます。

拝殿の向かいにあるのは納め大明神。酉の市で買った熊手をお返しするのですね。

納め大明神

新宿5丁目交差点側の参道入口には石鳥居があり、文政4年(1821)に造られた唐獅子像がありました。新宿区の有形文化財として登録されているそうです。

パワースポットで女性に人気があるという威徳稲荷神社。
ご利益は夫婦和合・子授け・縁結び夫婦和合・子授け・縁結び・恋愛成就ということで、カップルに人気が出そうなご利益です。

威徳稲荷神社

芸能浅間神社は芸能人から信仰を集めている神社。
ご祭神は木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)です。
江戸時代、焼失した社殿を再建するために境内で見世物や演劇、踊りなどを興行したといいます。これがご縁で芸能関係と関わりが深まったのでしょう。

芸能浅間神社

八代亜紀さん、中川翔子さん、水森かおりさんなど多くの芸能人が奉納されています。

圭子の夢は夜ひらく
奉納した芸能人

大都会新宿に、これだけの敷地を持つ神社が残っていることがすごいと思いました。
酉の市にも行ってみたいです。