標高584mの長水山山頂にある長水城に登りました。
といっても、ふもとからではなく、五十波(いかば)から林道を自動車で走り、行き止まりの駐車スペースからの登山です。
この駐車スペースには5、6台は駐められそうです。
しかし、林道は狭く、対向車が来たらすれ違うのもむつかしそう。対向車が来なくて良かった。
登山道入り口に長水城跡まで1kmとなっていたので、ちょっと不安になったのですが、約40分で頂上の主郭跡まで行くことができました。
登り始めてすぐのところに小さな滝がありました。井戸の跡もありました。水が豊富な山のようです。
斜面に大きな石がごろごろしており、このあたりから城の雰囲気が漂っています。防御が固い城のように思います。
さらに登っていくと道の横に石垣が現れました。頂上近くまで登って、上を見上げると立派な石垣が見えます。城の主郭のようです。
山頂の本丸跡は石垣が整備されています。石垣があると、いかにもお城という感じがします。
織田信長の軍勢が播磨に侵攻してきたとき、長水城主・宇野氏は織田方に味方しました。
しかし、天正6年(1578)に上月城が毛利によって落とされると織田を見限り、毛利に味方します。毛利が勝てると考えたのでしょう。
同年10月に有岡城の荒木村重が織田信長に謀反。さらに毛利が優勢と思われました。
しかし、天正7年(1579)、備前の宇喜多直家が毛利を裏切り、織田に寝返り。
11月には有岡城が落城。毛利は播磨に手を出せなくなります。
天正8年(1580) 1月に三木城が落城。
3月、姫路の英賀城(城主:三木通秋)が落城。
4月、姫路を出発した秀吉の軍勢は香寺の恒屋城や新宮の香山上を攻め落とし進軍。
毛利に味方した城は長水城だけになってしまいます。
5月、長水城を8千の兵で囲んだ秀吉軍は長水城を攻撃。
城兵の抗戦むなしく長水城は落城。
城主・宇野政頼らは長水城から落ちのび千種まで逃げますが、秀吉の軍勢に追いつかれ自刃。
千種町には宇野主従供養塔が建っています。
四基の五輪塔は宇野政頼、宇野祐光、宇野祐政、宇野祐清。板碑には14名の名が刻まれています。女性も2人いたようで、哀れです。
長水山頂には宇野氏の菩提を弔う信徳寺があり、宇野氏を弔う供養塔が建っていました。
長水城が落城したことにより、秀吉の播州平定が完結し、播磨の戦国時代が終了しました。
山頂からはすばらしい見晴らしです。秀吉軍が本陣を置いた聖山も見えます。
攻めてくる秀吉軍をみた宇野政頼は何を考えたのでしょうか。