神戸市西区の枝吉城跡へ行ってきました。
枝吉城(しきつじょう)は赤松氏の家臣である明石氏が、城山と呼ばれる標高26mの台地の上に築城しました。
築城の時期は15世紀中頃となっていますが、詳しいことはわからないようです。
現在、建物のあとは全く無く、石碑が建てられているだけです。
城山の周りには神本神社、吉田郷土館がありました。
神本神社(こうのもとじんじゃ)
初代明石藩主・小笠原忠正公によって元和7年(1621)に創建された神社です。
境内は明石氏の居館跡ということでした。
吉田郷土館
枝吉城があった城山は、弥生時代には畿内で最も早い農耕村落が営まれていました。こういう歴史ある吉田地区の地域文化の活動拠点となることを念願し、建てられた郷土館です。
1階に歴史資料展示室があるということでしたが、照明もついていなかったので、見ることはあきらめました。
枝吉城は城山の上にあるのですが、そこへの行き方がわかりません。
Googleマップは全くへんなルートを案内するし。
台地の周りを1周し、吉田郷土館に戻って、よくよく見たら、郷土館の左手奥に「枝吉城跡」と書いた案内板がありました。
もう少し目立たせて欲しかった。
枝吉城跡
何はさておき、ルートがわかったのでさっそく登りました。
頂上はたいらで城を築くには便利そうです。が、何もありません。
ただ「枝吉城跡」と刻まれた碑が建っているだけです。
天正13年(1585)、枝吉城主・明石則実は豊岡に国替えとなり、代わりに高山右近が明石に来ました。右近は枝吉城を使わず、海岸沿いに船上城を築きます。
枝吉城はその役目を終えました。
頂上の反対側にもう一つ碑が建っています。
播磨吉田遺跡の碑で、以下のように記されています。
中国大陸に起源をもつ稲作農耕文化は北九州から東進して当地方に及んだ。
播磨吉田遺跡の碑より
この丘陵上にも、畿内で最も古い農耕村落の一つが営まれ、 明石平野を豊穣の大地に変える、最初の一が打ちおろされた。その後、戦国時代に枝吉城を築城した際、この村落跡は破壊され、ほとんど消滅した。
台地の上に田んぼを作ったということは、台地の下は海または明石川だったのでしょうか。城を作ったときに全部壊されてしまったというのは残念な感じもしますが、そうやって古いものが新しいものに利用されていくのは仕方がないとも思いました。