鮎漁が解禁された闘竜灘を見に行きました。
天気の良い日でした。
加古川をまたぐ闘竜橋には「夏の陽」像という、麦わら帽子をかぶり網を手にした2人の子供の像があります。この像を見ていると、闘竜灘の水と相まって、これから夏になるぞ!という感じがしました。
闘竜灘の鮎漁は5月1日に解禁されます。
「鮎のぼり」がかけられていました。
闘竜灘の名は江戸末期の詩人・梁川星巌の詩から付けられたそうです。
一道飛瀧劈地開 怒声豪勢闘風雷
秋入千厳霜葉麗 玉龍踊出錦雲堆
闘竜灘を通る水の勢いを龍に見立てた詩です。
加古川水運の歴史
文禄2年(1593)生駒玄蕃が闘竜灘から加古川河口までの舟運を考え、滝野の土豪阿江与助、垂井村(小野市)三郎右衛門と砂部村(加古川市)彦兵衛に舟運水路の整備を命じました。
阿江与助らは岩石を切り崩し、川底をさらえ、底の浅い高瀬舟が通れる水路を完工しました。
高瀬舟は長さ11m、幅2.4m、深さ60cm。40〜60俵の米俵を積めました。
慶長9年(1604)、姫路藩主・池田輝政は氷上郡本郷から闘竜灘までの舟運水路開発を阿江与助と田高村(黒田庄)西村伝入斎に命じ、二人は工事を完工させました。
その功により、阿江与助は滝野船座、西村伝入斎は田高船座を預かります。
江戸時代、闘竜灘を舟で通ることはできませんでした。氷上郡からの荷は闘竜灘の手前で車に積み替えられ、下手の河岸まで運ばれてから高瀬舟に載せ替えられ高砂まで運ばれました。
おかげで、このあたりは商業の要衝地として栄えました。
明治5年 船座廃止
明治6年 生野銀山の開発に携わっていたフランス人技術者ムースの指導の元、闘竜灘の水路が開通。幅7m、長さ135mの岩盤が開かれた。
明治32年 阪鶴鉄道(JR福知山線)が開通。
大正2年 播州鉄道(JR加古川線)が開通。
鉄道が開通したことで、加古川を利用した輸送は終了した。
高瀬舟の舟運によって加古川流域の産業が発展し、漢学、俳諧、川柳、謡曲、浄瑠璃といった様々な文化が伝えられたそうです。
川を利用していろいろなものが運ばれたのですね。