岡崎・浄瑠璃姫伝説

浄瑠璃淵の句碑

愛知県岡崎には浄瑠璃姫にまつわる伝説が伝えられています。

矢作の宿に兼高長者と一の遊君がいた。一の遊君は海道一の遊女だった。金はうなるほどあったが、子ができなかった。一の遊君は必死になって子の誕生を願い、その念願がかなって浄瑠璃姫を授かった。
浄瑠璃姫は美しい姫君となった。

姫が16歳の承安4(1174)年、金売吉次と一緒に奥州平泉に下る御曹司(義経)が矢作を訪れた。
すると、屋敷から管弦の音が聞こえてきた。管弦に笛の音がないことに気づいた御曹司は自分の笛「薄墨」を取り出し、音を合わせる。笛の音を聞いた姫は御曹司を屋敷に招き入れ、二人は管弦、酒宴で時をすごす。
その夜、浄瑠璃姫を忘れられない御曹司は屋敷に忍び込む。言葉を尽くして言いよる御曹司の求愛を姫も受け入れ二人は一夜の愛を交わす。

矢作を旅立った御曹司は駿河・吹上で病に陥り、捨て置かれてしまう。
八幡大菩薩のお告げで御曹司の危機を知った浄瑠璃姫は、足を血まみれにして急いで駆け付けるが、御曹司はすでに死んでいた。
むくろになった御曹司を抱いた姫が神々に祈りをささげると、御曹司はこの世に生き返った。
名残を惜しむ姫を後に、御曹司は自分が義経であることを明かし、再び奥州へ旅立っていった。浄瑠璃姫は愛宕、比良野の大天狗、小天狗によって矢作に送り届けられた。

矢作へ戻った浄瑠璃姫は庵に幽閉され、悲嘆のあまり乙川に身を投じてしまう。
その後、義経が平家討伐の軍を従えて矢作を訪れ、姫の墓に参ったとき供養塔の五輪が裂け、そこから姫の魂が天に昇っていった。

浄瑠璃姫が身を投じたという菅生川の川辺には浄瑠璃淵の句碑があり、「散る花に流れもよどむ姫ヶ淵」と刻まれています。

乙川

浄瑠璃姫が入水した場所には、姫の足跡が刻まれた岩があったそうですが、どこにあるのかわからないようです。浄瑠璃淵の隣にある成就院には姫の供養塔があります。供養塔の横にある観音像は姫が入水する前に身支度を整えた洞窟に安置されていたものといいます。

成就院
浄瑠璃姫の墓

岡崎城の近くには浄瑠璃山光明院という寺があります。この寺は浄瑠璃姫の父兼高長者が開いた浄瑠璃山安西寺から始まるもので、姫の守り本尊の尊薬師如来が安置されているそうです。また、矢作川を渡った向こうにある誓願寺には兼高長者が残した義経と浄瑠璃姫の木像、姫の鏡や義経が浄瑠璃姫に贈ったとされる笛「薄墨」が伝えられています。

浄瑠璃山光明院
誓願寺

源義経と浄瑠璃姫が出会い、悲しい別れになる浄瑠璃姫の伝説。
元の話は「浄瑠璃十二段草子」という御伽草子にあり、この話が広まって「浄瑠璃」となったそうです。

浄瑠璃十二段草子は義経が生き返り、再び奥州へ旅立ち、浄瑠璃姫が矢作に帰るところで話が終わります。ところが、岡崎では姫が身投げし、その墓を義経が詣でたときに昇天するという話になるという違いがあります。

岡崎の人は、離れ離れになって一人残された姫を、もっとストーリーの中心に置いた話にしたかったのかもしれません。確かに、二人があっさり分かれて終わるよりも、浄瑠璃姫の身投げというクライマックスがある方が物語として魅力的な感じもします。

二人が出会ったのは承安4(1174)年、浄瑠璃姫が16歳のときでした。それから800年以上も、浄瑠璃姫の伝説は語られ続けています。

岡崎城の北にある浄瑠璃姫供養塔