大阪天満宮

大阪天満宮にお参りしました。
天満宮に行くためには天神橋を渡り天神橋商店街を通っていきます。
天満橋は全長210メートルの長い橋です。難波橋、天満橋と共に浪華三大橋とされています。
天神橋がかけられたのは文禄3年(1594)。その当時は大阪天満宮が管理を任されていました。
天神橋商店街は全長2.6キロの日本一長い商店街。600もの店が並んでいます。

天神橋
日本一長い天神橋商店街

天満橋商店街を表門筋で右折すると、大阪天満宮です。
平日にもかかわらずたくさんの人がおまいりしていました。

大阪天満宮
天保14年に再建された本殿

天満宮なので当然のことながら、菅原道真公と関係が深い神社です。

昌泰4年(901)正月に突如、太宰府に左遷された道真公は太宰府に向かう途中、難波崎の大将軍社に参り、旅の安全を祈願された。
その2年後の延喜3年、道真公は太宰府で亡くなられる。
それから約50年たった天暦3年(949)、大将軍社の前に7本の松が生え、毎夜光を放つという奇瑞が顕れた。
これを聞いた村上天皇は勅命によって、ここに社を建て、道真公の御霊をお祀りした。

道真公が太宰府で亡くなられた後、道真公を太宰府に追いやった藤原時平が急死したうえ、天変地異が相次いで起こりました。延長8年(930)には御所の清涼殿に雷が落ち、大納言・藤原清貫が死ぬという事件も起こっています。
これらの出来事は菅原道真公の祟りで、道真公の怨霊のせいだと考えられました。
天暦元年(947)には道真公の霊を慰め、お祀りするために北野天満宮が建てられました。
その2年後(天暦3年/949年)に大将軍社の奇瑞を聞いたら神社を建てずにおられなかったのだと思います。

奇瑞が現れたという大将軍社です。
大阪天満宮の地主神で孝徳天皇の時代、白雉3年(652)に難波長柄豊崎宮に遷都されたとき、西北を護るために道饗祭が行われるようになり、そののちに大将軍社が建てられました。

大将軍社

境内の「菅家廊下」では天神様(道真公)の一生が博多人形で紹介されています。
 ※「菅家廊下」の名は菅原家が造った私塾の名で、多くの学者、官吏を輩出した。
その「菅家廊下」に道真公が大将軍社にお参りしたときの様子があります。当時、大将軍社はまさに波打ち際にあったことがわかります。
昔と今とでは地形が全く違いますね。
それにしても、それぞれの場面、情景が博多人形でリアルに再現されていて、理解がしやすかったです。

菅家廊下
大将軍社にお参りする道真公

境内にはたくさんの摂社、末社がありました。
その一つに白米社があります。これは「はくまい」ではなく「しらよね」と読みます。
この社はお稲荷さんで、創建のいわれなどはわからないそうです。
中に白い平べったい石があって「狐、天狗の爪研ぎ石」といます。古代に勾玉や菅玉を磨いた砥石だそうです。そういう石が発見されているのですね。

白米社
狐、天狗の爪研ぎ石

また石碑、句碑などもたくさんあります。

「神武天皇聖跡難波之崎顕彰碑」という碑があり、難波の由来が書かれていました。

神武天皇が御東征されたときに到着された所である。
潮の流れが急だったことから浪速の国の名がつき、のちに難波となった。

神武天皇の時代にその名がつけられたという、ものすごい歴史がある名ですね。

神武天皇聖跡難波之崎顕彰碑

算額も掲げられていました。
数学、幾何学を娯楽として楽しんでいたとは。
それにしても、よくこんなむつかしい問題を考えていたことに感心します。

幾何学問題の算額

他にもたくさんの見所でいっぱいです。
大阪天満宮は歴史もエピソードも満載の神社でした。