江ノ島へ行くため小田急片瀬江ノ島駅で降りました。駅舎は竜宮城の形をしています。
とても色鮮やかな建物で、屋根の中央には金色の龍がいます。しゃちほこはイルカのようです。
昭和4年(1929)の開業当時のものが初代で、現在の駅舎は2020年に建てかえられた2代目の竜宮城駅舎ということです。
弁天橋
江ノ島までは全長389メートルの弁天橋で渡ります。
1959年に造られた橋です。
橋がなかった時代は舟で渡っていました。
トンボロという自然現象のおかげで、江ノ島まで地続きになって歩いて渡れることもあるそうです。
鎌倉時代の弘長元年(1261)の1月に地続きになって、将軍・源実朝は神のおかげではないかと思ったといいます。また、慶長5年(1600)6月には徳川家康が徒歩で江の島に渡ったという記録が残っているそうです。
この日は風が強く、海が荒れており、地続きになるのは全く想像できませんでした。
江の島に上陸。
江島神社への参道を歩いていきます。参道の両側にはいろいろな店があって楽しい。
江の島に来たのだから生しらす丼を食べようと思ったのですが、強風で海が荒れて漁ができなかったので、生しらすが入荷されていませんでした。
残念ながら、生しらす丼は次回にお預けです。
江島神社
欽明天皇13年(552)に創建されたという江島神社があります。
江島神社は辺津宮、中津宮、奥津宮の3つの神社からなり、多紀理姫命、市杵島姫命、田寸津姫命の三姉妹がお祀りされています。
謡曲「江ノ島」は次のストーリーとなっています。
欽明天皇13年卯月12日戌の刻より23日の辰の刻まで黒い雲が天を覆い、雨が吹き荒れ、大地が振動すること10日ばかり。
海から真っ赤な火柱とともに岩が吹き出し海上に一つの島が湧出した。
島は江の島と名付けられた。
その辺では五頭龍王が暴威を振るって人民に害悪を加えていたが、天から舞い降りた天女が夫婦の契りを結び、龍王の心を和らげた。
それ以来、龍王は国土守護の善神となり、龍口の明神と崇められた。
大地震とともに江の島が誕生したという江の島の起源、自然の荒々しさが謳われています。
弁才天は恐ろしい龍の心を鎮めました。
弁財天を祀る江島神社は広島の宮島、滋賀の竹生島と並ぶ、日本三大弁天の一つです。
竜宮城の形をした瑞心門をくぐって江ノ島神社にお参りします。
江の島は結構高低差があります。
一番下にあるのが辺津宮。中津宮まではだいぶ登ります。奥津宮は中津宮からだいぶ離れています。アップダウンと距離があったことから、歩き疲れました。エスカーという登り専用のエスカレーター(有料)があるので、利用してもよかったなと思いました。
辺津宮
ご祭神は田寸津姫命(たぎつひめのみこと)。建永元年(1206)、三代将軍・源実朝公によって創建されました。
奉安殿には八臂弁財天座像や妙音弁財天座像がまつられています。
八臂弁財天座像は源頼朝が文覚上人に造らせたものとされており、奥州の藤原秀衡追討の祈願をさせたそうです。妙音弁財天座像は裸弁財天とも言われ、全裸のお姿をされていました。全裸というのは珍しいと思います。
中津宮
ご祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。仁寿3年(853)に慈覚大師によって創建されました。
奥津宮
ご祭神は多紀理姫命(たぎりひめのみこと)です。
奥津宮の石鳥居は源頼朝が奉納したと言われています。奉納した年は寿永元年(1182)。奥州の藤原秀衡の追討を祈願しての奉納だったようです。
でも、壇ノ浦の戦いで平家が滅びたのは寿永4年(1185)。平清盛が前年に亡くなったとはいえ、寿永元年当時、平家はまだまだ強大でした。
この時点で奥州を狙っていたとは。よほど奥州を自分のものにしたかったのでしょうか。
山ふたつ
中津宮から奥津宮へ行く途中に「山ふたつ」という断崖があります。
自然の荒々しさを感じさせる光景です。
谷底には遊行僧が修行したという洞窟があるそうです。
どうやってこんな断崖を降りていったのでしょうか。
岩屋
岩屋は第一岩屋と第二岩屋の二つあります。
第一岩屋が江島神社発祥の地とされる洞窟です。弘法大師空海、慈覚大師、日蓮上人などの高僧、源頼朝や北条時政などの武人が祈願に訪れたといいます。
暗い洞窟を燭台を持って奥に進みます。この洞窟は富士山の鳴沢氷穴につながっているという伝説があります。
一番奥に「江島神社発祥の地」がありました。欽明天皇13年(552)に創建されたという所です。
昔の人はどうしてこんな洞窟の中に入っていこうと思ったのでしょうか。
前を歩くカップルの女性が「ねえ、知ってる? 私は暗いところが好き。洞窟が好きなの」と彼氏に話しかけていました。
暗い所を怖いと思いながら入ってしまうのは、人間の本能の一つかも。
洞窟にこだまする波の音や暗闇が龍や弁財天の存在を感じさせたのかもしれませんね。