市川町・瀬加山城

兵庫県神崎郡市川町にある瀬加山城を訪問しました。

瀬加は播磨風土記の「川辺の里」のところに出てくるという歴史ある地名です。

勢賀というわけは、応神天皇がこの川で狩りをしたとき、逃げ道をふさいで猪や鹿をたくさん獲った。だから勢賀という。
 播磨風土記より

「この川」は瀬加山城の前を流れる岡部川と考えられています。
約1300年も昔から続いてきた瀬加(勢賀)。地名はいつまでも残る貴重な財産ですね。

十柱神社

十柱神社は稲わらで作る巨大な干支飾りで知られている神社です。
今年は稲わらではなく、龍の絵が描かれた巨大絵馬でした。ハンサムなお顔をした龍です。

「左手で地球をつかみ、右手でうさぎの月をつかみ、宇宙の王者として世界の平和と人々のしあわせを願いつつ、大宇宙を遊泳する龍の姿」との説明がありました。

龍の巨大絵馬

十柱神社は明治41年(1908)に十の神社が合祀されてできた神社です。干支飾りだけではなく、拝殿のしめ縄も大きくて立派です。

十柱神社

瀬加山城

続いて、瀬加山城に登りました。
瀬加山城は標高200メートル、比高100メートルの瀬加山山頂に作られた城です。
嘉吉年間(1441~1444)に赤松一族の太田氏によって築城されたと伝えられています。

山頂までの遊歩道ができていて、春になれば桜、ツツジが満開に咲いている中を登っていけるようです。

約20分で頂上の本丸跡に到着。
頂上はきれいに整備されていて、頂上にあった神社が十柱神社へ遷座されたことの記念碑、瀬加山城の復元図、瀬加山城の歴史の説明板、瀬加山城を飾る人たちの絵などがありました。

瀬加山城の特徴は主郭の東側面にある畝状竪堀群というものです。
たしかに東側の急斜面は溝のような筋がいくつもありました。こういうふうに溝を掘っていると、攻め手は溝に沿って登ってくるので、守る側はそこを集中して攻撃すれば良いので、少ない人数で城を守れるという利点があります。

瀬加山城復元図
畝状竪堀群

瀬加山城は天正5年(1577)、羽柴秀吉の攻撃によって落城しました。
秀吉に立ち向かったのは、城主の大田道祖、源太夫親子以下わずか70人。
いくら、畝状竪堀群があるといっても、戦のプロ集団である秀吉軍に、たった70人ではあっという間に戦いの決着はついたと思います。
しかしドラムが生まれます。

登場人物は瀬加山城主・大田道祖、槍の名手・蔭山太郎兵衛と娘の絹枝、文武両道・青柳五郎左衛門と息子の四郎兵衛です。

絹枝は十八の可憐な娘。四郎兵衛と将来を誓い合っていました。
天正5年2月18日、城主・大田道祖は家臣一同を集め「城の運命も、もはやこれまで。切って出て、岡部武士の最後を後の世にまで語り伝えるのも死出のほまれなり」と最後の盃をかわします。
火をつけられた城は燃え上がります。
四郎兵衛と絹枝はもはやこれまでと、岡部の川の岩の上で、来世での夫婦の契りの盃を交わし、互いに刺し違えました。
 山上の説明板より

瀬加山城のふもとを流れる岡部川には、四郎兵衛と絹枝が刺し違えたという夫婦岩があります。そばには見つめ合う二人の絵もありました。

岡部川

岡部川の向こうは河岸段丘の高台で、「くごの構え」といって城主や家臣が住んでいました。
ここからは城がよく見えました。
燃え落ちる城を見た二人は、死後の世界で一緒になれることを信じて、死んでいったのでしょう。

見つめ合う二人

現在、瀬加山城二の丸跡に「しあわせの鐘」がもうけられています。

「一回鳴らして、瀬加山城で散った四郎兵衛と絹枝、瀬加山城で散った70名の冥福を、二回鳴らして、家族や友達、世界の人々のしあわせを、三回鳴らして、自分の夢やしあわせがかなえられることを祈りましょう」とあります。
四郎兵衛と絹枝が今の時代に生まれていたなら、幸せな家庭を築いたかもしれませんね。