加西・玉丘古墳

玉丘古墳群は玉丘史跡公園の中にあり、玉丘古墳、陪塚第1号墳、陪塚第2号墳、壇塔山古墳、クワンス塚古墳、愛染古墳、実盛塚古墳で構成されています。
古墳の形は前方後円墳、帆立貝式古墳、円墳、横穴式石室墳と色々です。

玉丘史跡公園のホームページより

玉丘古墳

玉丘古墳は全長109m、後円部径63m、高さ9m、前方部幅58m、高さ7mの前方後円墳。
兵庫県下で7番目の大きさの古墳です。
古墳時代5世紀前半に造られました。

播磨風土記に玉丘古墳は根日女(ねひめ)のために作られたという話が載っています。

※ 根日女の伝説
国造許麻の娘、根日女は二人の皇子意奚(おけ)、 袁奚(をけ)(後の仁賢天皇と顕宗天皇)から求婚され承諾した。
ところが二人は譲り合って結婚しないでいた。その間に、根日女は年老いて死んでしまう。
これを聞いた二人は悲しんで「朝日夕日に日が隠れない場所に墓を作って屍を納め、玉をもってその墓を飾れ」と命じた。
そのため、根日女の墓は玉丘と、その村を玉野と名付けられた。

播磨風土記より

根日女は何年待ったのでしょうか。
意奚と袁奚は求婚して、相手はOKと言っているのに、何年も譲り合うとは。仁賢天皇、顕宗天皇とも賢帝だったようですが、いつまでも待たせてしまうとは、ちょっと問題ありです。
そして、根日女の方も問題があるのでは。彼女は本当は意奚と袁奚のどちらを好きだったのでしょうか?

玉丘古墳が見えてきました。大きいです。

道があったので、墳丘に入っていきました。

石棺が出土したところに説明板がありました。

死者を葬った主体部は、高室石で造られた巨大な長持形石棺ですが、明治時代の盗掘などにより、破壊され多くの部材が持ち去られています。
長持形石棺は、畿内を中心に築かれた大前方後円墳に用いられていることから、「王者の棺」と呼ばれており、玉丘古墳の長持形石棺も昭和6年の調査で、これらの古墳に匹敵する巨大で優美な長持形石棺であることが報告されましたが、その後は、埋もれるままになっていました。
加西市教育委員会では、これらの石棺材の存否を確認し、今後の保存と活用の資料とするため、3月から86年ぶりに石棺の発掘調査を実施しました。
調査の結果、昭和6年に確認されていた石棺材のすべてが残っており、完存する底石は、長さ3.4m、幅1.6m、推定重量3.5〜4.0トンの巨大なものでした。
また、詳しい計測結果から、蓋石も長さが3mほどに復元でき、国内屈指の大きさがある巨大な長持形石棺であることが確認できました。
さらに、各部材の組み合わせ加工や彫り込まれた精巧な装飾なども最上級の長持形石棺に施されるものです。
大和政権の許可が必要な大王級の長持形石棺が玉丘古墳に用いられていることは、葬られた人物が中央政権と密接な関係をもっていたこどをうかがわせるものです。

説明板より

石棺もっと単純な形をしていると思っていました。

突起があって、家の形をしています。
石をこういう形にするのは、手間隙かかる、最高技術の作業だったと思います。

史跡公園内の他の古墳

陪塚第1号墳

  • 墳形・規模:円墳、径 20m 周濠は不明
  • 造立時期:古墳時代後期(7世紀中頃)
  • 埋蔵施設:無袖式横穴式石室、組み合わせ式家形石棺

陪塚第2号墳

  • 墳形・規模:方墳、一辺 24m 周濠幅 4m
  • 造立時期:古墳時代中期(5世紀前半)
  • 埋蔵施設:不明

愛染古墳

  • 墳形・規模:円墳、径 18m
  • 造立時期:古墳時代後期(7世紀中頃)
  • 埋蔵施設:無袖式横穴式石室、組み合わせ式家形石棺

実盛塚古墳

  • 墳形・規模:円墳、径 35m、周濠幅 10m
  • 造立時期:古墳時代中期(5世紀前半)
  • 埋蔵施設:竪穴式石室 割竹形木棺

クワンス塚古墳

  • 墳形・規模:円墳、径 35m、周濠幅 10m
  • 造立時期:古墳時代中期(5世紀前半)
  • 埋蔵施設:竪穴式石室 割竹形木棺

壇塔山古墳

  • 墳形・規模:円墳、径 17m、周濠幅 2m
  • 造立時期:古墳時代中期(5世紀前半)
  • 埋蔵施設:不明

マンジュウ古墳

この古墳は玉丘史跡公園の外にあります。

  • 墳形・規模:2 段築成の帆立貝式古墳、全長 45.4m
  • 造立時期:古墳時代中期(5世紀前半)
  • 埋蔵施設:不明

石棺が複雑な形をしていることを初めて知りました。
長持形という言葉からはもっと単純な形をしていると思っていました。
すごく手が込んだ加工をしていて、当時も腕のいい職人がいたようです。