宮本武蔵の生誕地 太子町宮本

宮本武蔵の生誕地と名乗りを上げているのは高砂市米田、兵庫県太子町宮本、岡山県大原町宮本の3箇所です。五輪書には播州出身と書かれているので、高砂市米田か太子町宮本の可能性が高いと思われます。

前に高砂市米田に行ったので、今回、兵庫県太子町宮本に行ってみました。

武蔵の生誕地碑が石海神社(せっかいじんじゃ)にあります。

鳥居の脇に宮本武蔵顕彰碑が建てられていました。
書は旧龍野藩15代当主 脇坂研之氏。龍野御坊の宮本武蔵修練の地の碑も脇坂研之氏の書です。

宮本武蔵の由来を説明する看板があり、次のように記されています。

宮本武蔵 由来
剣聖 宮本武藏の自筆の書 五輪書の序文に 時實永二十年十月のころ、生国播磨の武士新免武蔵守、藤原の玄信、年つもって六十 とあり、また、平野庸修が宝暦年間に書いた播磨鑑には、宮本武蔵 揖東郡斑鳩の庄宮本村の生まれとある。
これらの記述から当宮本は、武蔵生誕の地と考えられるが、残念なことに安永年間と明治二十年の大火で村の大半が罹災し、系図や古文書が消失したのは残念である。
ここに、宮本武蔵顕彰碑を建て、長く武蔵の遺徳を讃える。

火災がなくて古文書が残っていれば、武蔵生誕の謎が解けたかもしれないので残念です。

近くに宮本武蔵生家跡とゆかりの井戸がありました。武蔵が使った井戸といいます。

その隣には正治大明神の祠があり逆さ椋という老木が祀られています。
250年前の宝暦、明治20年の大火で村の大半が焼けたときに、この椋の木も地面から2.5mを残して焼けてしまったが、根っこが強力で生き続け、いまでは立派な枝振りになったという木です。

この木は武蔵のことを知っている可能性があります。

ここ太子町宮本は宮本武蔵生誕地としては美作、高砂より有名ではないと思います。
しかし、江戸時代に「播磨鑑」を書いた平野庸修は、自分のが生まれた村の隣である米田村のことではなく「宮本武蔵 揖東郡斑鳩の庄宮本村の生まれ」と書いています。
また、綿谷雪氏, 山田忠史氏の武芸流派辞典に以下のように書かれています。

実父は播州宮本村(揖保郡太子町宮本)に住む宮本仁右衛門家貞という人で、武蔵はその次男だったが、むつきのときからもらわれて作州讃甘庄(岡山県英田郡大原村)の新免武二の未亡人に引き取られて同家の養子になった。

さらに、宮本武蔵は太子町から近い龍野御坊で修練しています。
もしかしたら、ここが本当の生誕地かもしれません。