国府山城・黒田職隆廟所

黒田職隆、官兵衛親子は天正八年(1580)に秀吉に姫路城を明け渡し、国府山城に移します。
もとは妻鹿孫三郎長宗が作った城と伝えられています。

国府城入り口
妻鹿孫三郎のことが述べられてる

国府山城(功山城とも)は城郭の観点から見て砦のような小規模な城だが、たいへん優れた城であった。
先ず第一はたいへん堅固な要塞をなしているということ。
市川は妻鹿の河口で二つに分かれ、一つは現在のように南に流れ、別の流れは現在の浜国道の南佑いに流れ、今は埋め立て地となっていう妻鹿港に流れていて、天然の堀となっていた。
また南の一部には松原山があり、東には御旅山、妻鹿山が連なっている。
北は峻険な切岸をなし、したがって妻鹿村全体が大規模な城郭となっていた。
第二は、瀬戸内海を一望のもとに眺めることができ、見晴しのたいへんよい城である。
名城の条件を満たしている。
第三は、市川は当時現在の京口川とつながっており、姫路城近くまで舟で行くことができた。
軍の移動も物資の運搬にもたいへん便利よく、真北に位置する姫路城の支城としては申し分なき城であった。
軍師官兵衛も一時期この城を居城としており、築城の名手黒田官兵衛はこの城から始まったといっても過言ではない。

説明看板より

地図にすると次のようになると思いました。妻鹿は山と川に囲まれています。

国府城縄張り

石段を登ると荒神社があります。そこから案内に従って国府山城の方へ登っていきます。

荒神社

「馬駆け」と書かれた場所がありました。
ここは割と水平で道幅があります。その名前から馬が走ったのだと思います。

途中で、甲山経塚(こうやまきょうつか)というのがありました。平安時代中期から室町時代の須恵器等が出土したとあります。

 甲山は御旅山の北西端に位置し、経塚はその緩やかな山頂部の突端に造営されている。
経塚とは経文を容器(経筒)に入れて土中に埋納した遺跡である。経典を後世に伝え、その仏教的な作善行為によって極楽往生を願う経塚の造営は平安時代中期以降に全国的に盛行した。
 甲山経塚は昭和42年に地元有志の調査によって発見され、その後の調査で立石状に露頭した岩の周囲で3基の埋納坑が確認された。埋納坑は板石で囲んで構築されていた。
 遺物は土師質外容器・経筒、須恵器甕、青白磁合子、泥塔、銅鏡、銅銭などが出土した。このうち泥塔は塔身に二仏の坐像が陽形の笵で浮き出されている。同一型式のものが甲山南麓の荒神社に御神体として祀られていた。類例が乏しく珍しいものである。須恵器甕は香川県の甕山窯の製品で平安時代中期から後期のものと考えられる。
 また、経塚周辺から鎌倉時代から室町時代の瓦質土器土釜・土師器香炉・白磁皿など出土しており、中世を通じて信仰されてきた可能性がある。
 平成23年6月 姫路市教育委員会

説明看板より

山を登っていくと道沿いにかまど跡、井戸跡、土塁跡、郭跡(くるわあと)の看板が出てきます。

登っていくにしたがい、石は大きくなり、人の手で作られたと感じられます。

磐座がありました。
神様への信仰の場所が残っています。

頂上は平らで広く、主郭になっています。
三木城落城させた後、黒田職隆、官兵衛親子は秀吉に姫路城を譲り、国府城に移ります。

ここから姫路城が見えます。

二人は秀吉のいる姫路城を見て何を思ったのでしょうか。

黒田職隆廟所

続いて黒田職隆廟所にお参りしました。黒田職隆は黒田官兵衛の父です。職隆は筑前さんと呼ばれていました。

廟所について以下のように説明されています。

姫路市指定史跡 黒田職隆廟所
 黒田職隆は、安土桃山時代の武将黒田 孝高(官兵衛、如水)の父である。
孫の長政は、初代筑前福岡藩主。
廟所は南北約15m、東西約12mの 規模で、中央の廟屋内に大型の五輪塔が建つ。
 江戸時代の古文書『播磨古事』等によれば、天明三年(1783)十月、姫路城下の心光寺住職 入誉が墓所発見を藩に報告し、翌年十月、福岡藩が玉垣を巡らし、廟屋を整備するなどしたとされる。
 現在の廟屋は昭和五十二年に地元 治会が修築したもの。
 北約800mには、職隆が晩年に在城したとされる国府山城(功山城)がある。
 平成二十六年一月十六日指定。
  平成二十六年一月  姫路市教育委員会

説明看板より

職隆が亡くなったのは天正十三年(1585)、官兵衛が亡くなったのは慶長九年(1604)。
職隆の墓が発見されたのは1783年です。
戦国の嵐の中、福岡への引っ越しなどで墓の場所は忘れられてしまったのでしょうか。

職隆の事績を調べると、有能でかつ非常に清々しい人物のようです。黒田官兵衛はいいお父さんを持ったのだと思いました。