生野義挙・美国神社

  文久3年(1868)10月12日に生野で尊王攘夷派による代官所襲撃事件(生野義挙)が発生しました。この事件は筑前藩士 平野国臣、薩摩藩士 美玉三平らが長州へ都落ちした七卿の一人 澤宣嘉を奉じて但馬の志士、農民を集めて起こした事件です。
 大和(奈良)で八月に発生した天誅組の乱に呼応して事件を起こす予定でしたが、決行前に天誅組の乱が壊滅したとの報が入りました。義挙を決行するか中止するかの意見が対立した末、強硬派に引きずられ事件を起こしたものの、義挙の翌日、13日にはほぼ鎮圧されました。
 義挙に加わっていた美玉三平、中島太郎兵衛、黒田与一郎の三人は生野から山越えで宍粟へ落ちのびます。しかし、宍粟郡山崎にて美玉三平、中島太郎兵衛は殺され、黒田与一郎は捕らわれ、京都で牢死すました。

明治になり美玉三平、中島太郎兵衛に従四位、黒田与一郎に正五位が贈られました。


美玉三平、中島太郎兵衛両名の墓が宍粟市美国神社にあります。
神社の創立は明治にはいってからです。御祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)。

美国神社の入り口
鳥居
社殿

神社の前には勤王志士の碑、境内には美玉三平、中島太郎兵衛の墓があります。

勤王志士の碑
美玉三平、中島太郎兵衛の墓

美玉三平、中島太郎兵衛、黒田与一郎の碑には獄中の黒田与一郎が美玉三平と兄の中島太郎兵衛を悼んだ歌が刻まれています。

もののふの 名はいつまでも 木の谷の

  そのかんばしき 楠のもと

義挙を起こした経緯、その後の顛末をみると、若者の哀れさを感じました。