三木義民・本要寺

三木市にある本要寺を訪問しました。
三木城が落城したあと、秀吉は本陣を本要寺に移し、自刃した別所長治の首実検をしました。
秀吉は三木合戦によって四散した町民を呼び戻すために、三木を免租地とする制札を建てます。これが、義民のエピソードにつながります。

山門の脇にある三木義民の碑
三木義民祭ののぼり
三木合戦後、秀吉によって三木は免租地となった。

その後、たびたびの領主替えになっても、先の領主にもらった書付け(地子免許状)を差し出して税や様々な労役を免れてきた。

ところが、延宝五年(1677)徳川四代将軍家綱の「延宝の検地令」によって免租の特権が取り消されてしまった。住民は本要寺で話し合い、平田町大庄屋の岡村源兵衛と年寄の大西与三右衛門が江戸へ行き、免訴を直訴することになった。
当時、直訴をすれば、直訴した者の一家は全員死罪になるという掟であった。

延宝五年三月、二人は三木を出る。 
江戸に着いた二人は勘定奉行などに訴えるが、取り合ってもらえない日々が続いた。 

十二月、二人は老中・酒井雅楽頭の門前に三日三晩断食して座り込みを行い「願いかなわずば死すとも動かず」と嘆願。 
ようやく二人の願いが通り、酒井公のもとで協議がなされることになった。 

このとき、本要寺に残されていた秀吉の免租の制札がみつかり、江戸へ届け出られた。
これが免訴の有力な証拠となった。

 十二月二十四日、ついに免租が認められた。
 誠意が認められた二人は死罪を免れ、再び三木の地を踏むことができた。

秀吉の制札は味噌樽のフタに使われていたとか。よくぞ、捨てずに使っていたものです。

別所長治公の供養塔、三木合戦後の戦後復興に尽くした伊木豊後守の墓が並んでいます。

別所長治公供養塔
伊木豊後守の墓
宝蔵
義民の碑

三木の免租取り消しの危機は2回あったようです。
2回目は宝永四年(1707)。新領主となった下館藩黒田家は先例を見直し「地子銀」の賦課、および町代表者の江戸出頭を命じます。
これに対し、家老に宛てた願書を惣代3名に託し、訴訟を起こしたが敗訴(宝永訴訟:1708年)。
3年後の1711年、領主への再願した結果、免租が認められました(正徳訴訟)。

秀吉が許した免租の権利を徳川の時代になっても認める。
当時の政治家は柔軟な考えをしていたと思いました。