平福までサイクリング

姫路から平福までサイクリングしました。
約55km。今までで最長。
こんなに長い距離を走るのは初めてなので、無事にたどり着けるか、少し不安。

8時過ぎに出発。姫路城の前を通ったのですが、朝が少し早いのと、コロナの影響で人がいませんでした。
以前は、ここは大勢の人が歩いていたのだが。

たつのに出て179号線を北上、揖保川沿いを走りました。
179号線沿いには播磨風土記のにまつわる碑が建てられていました。

 

風土記 狭野村の石碑

風土記にまつわる地名の由来が書かれています。

今は佐野と書くのですが、風土記には狭野村(さねのむら)と書かれている。
狭野村のあたりは別君玉手(わけのきみたまて)の一族によって支配されていた。

觜崎の屏風岩

前にここまでサイクリングしたことがあるのですが、夏だったので岩が木々に覆われ、どこが屏風岩かわかりませんでした。
今は木の葉っぱも散って、屏風の形がはっきりわかりました。

風土記 越部里の石碑

越部里と栗栖里の境界に建てられていて、越部里はここから南側を言うそうです。

もとの名は皇子代里(みしろさと)。土壌は中の中。皇子代の地名は安閑天皇に気に入られた但馬君小津が皇子代の姓を賜り、屯倉をこの地に造って天皇に仕えたことに由来する。
のちに国主の上野の太夫が越部里と改めた。

越部里の石碑

道の駅しんぐう

道の駅しんぐう に到着。
ここで休憩。ここまで、アップダウンもなく順調に走れました。

道の駅しんぐう

千本本陣

千本へ到着。
千本は姫路から山陰へとつながる因幡街道の宿場町で鳥取藩などが参勤交代のときに利用していた本陣がありました。
今は、その本陣跡がそばと田舎料理のレストランになっています。

千本木陣屋跡

千本をすぎるとだんだん山の中に入っていきます。

播磨風土記 栗栖里の石碑

第16代仁徳天皇から渋皮のむけた栗の実(栗子:くりす)を賜り、それを当地に植えたのが「栗栖」の地名の始まりと伝えられている。

栗栖里の碑

相坂峠

標高は180m。この坂を登るのは厳しかったです。

隠岐に流された後鳥羽上皇(承久の乱)、後醍醐天皇(元弘の乱)は相坂峠を越えていきました。

逢坂峠

頂上付近に後鳥羽上皇が詠んだ「立帰り越しゆく関と思はばや 都に聞きし逢坂の山」の碑があります。

相坂と京都の逢坂が同じ名であることを聞いて、「今は隠岐に流されても、再びこの峠を越して都へ帰りたい」と念願して詠まれました。
しかし、京に戻ることはできず隠岐で崩御された。

後鳥羽上皇歌碑

三日月

やっとの思いで相坂峠を超えると三日月に着きました。三日月のマークが見えます。
ここは森蘭丸の一族である森家が治めた所。立派な陣屋(乃井野陣屋)があります。

三日月マーク
乃井野陣屋

三日月を過ぎて最後の難所、佐用坂を登ります。疲れました。

平福

利神城が見えてきました。
石垣や登山道が崩落する危険があるため、登城は禁止されていました。

遠くに見える利神城

宮本武蔵初決闘の地がありました。
武蔵13歳のとき、ここで初めて決闘をし、有馬喜兵衛と戦いました。

武蔵初決闘の地
ここで有馬喜兵衛と戦った

五輪書には次のように書かれています。

我若年のむかしより兵法の道に心をかけ 十三才にして初めて勝負を為す。
その間、新当流有馬喜兵衛と伝ふ兵法者に打勝ち。

五輪書より

決闘の地を通り、平福の街へ入っていきます。
とうとう、平福陣屋跡に到着。

平福の街へ
平福陣屋跡

走り切ることができた!よかった〜