赤とんぼの母・碧川かた

龍野の文学資料館・霞城館で碧川かた氏の展示会が行われていました。
碧川かた氏は赤とんぼの詩を作った三木露風の母です。
すごい、すばらしい女性でした。

略年譜
明治5年(1872)鳥取池田藩家老・和田邦之助の次女として生まれる。生後まもなく、和田家重臣・堀正の養女となる。
明治19年(1886)14歳のとき、堀正が龍野監獄所長となる。
明治20年(1887)堀正が転勤となり、かたは龍野円覚寺の養女となる。

明治21年(1888)16歳で三木制の次男・節治郎と結婚。
明治22年(1889)長男・操(露風)が生まれる。
明治25年(1892)次男・勉が生まれる。
明治28年(1895)23歳のとき、節治郎と離婚。勉を連れて鳥取の実家に帰る。

節治郎と露風

節治郎氏は遊び人で、ちょっと悪かったようです。

その後、かたは上京し、東大病院付属看護養成所に入所。
このとき、かたが一人で子供を連れて上京することを心配した人が鳥取中学の学生に同行を依頼。引き受けたのが、後にかたと結婚する碧川企救男でした。

碧川企救男

明治30年(1897)25歳、東大病院付属看護養成所を卒業し、東大病院で勤務。
明治35年(1902)30歳、碧川企救男と再婚。北海道へ移る。
明治41年(1908)企救男一家、上京。

かたのスケッチ

大正8年(1919)47歳のとき企救男が渡欧。禁酒・婦人参政権運動を知り、かたに手紙を送る。かたは「東京婦人禁酒会」を設立し、会長となる。街灯設置や国会議員食堂での禁酒などを実現する。
大正14年(1925)53歳で「婦人参政同盟」を組織し、女権拡張運動に取り組む。「婦人参政権法律案」を議会に提出。

活動中の写真

昭和2年(1927)「女権社」を設立。雑誌「女権」を発行。婦人参政権を訴える。
昭和20年(1945)70歳のとき、女性の参政権が認められる。
昭和28年(1953)81歳、国会議事堂を訪れ、婦人解放・参政権獲得運動の日々を思い出し、感激の涙を流し号泣する。
昭和37年(1962)90歳、死去。

47歳で「東京婦人禁酒会」を設立してからの行動力がすごいと思いました。
でも、家族との写真ではかわいらしい感じの人でもあります。

家族との写真
晩年の碧川かた

露風と手紙のやり取りも盛んに行っていたようです。
露風が詩集を世に出すようになるのは企救男一家が東京で暮らし始めた1910年頃です。かたはうれしかったと思います。

かたから露風への手紙
露風から方への手紙

離婚して鳥取に帰って、よくぞ東京に出て看護師になろうと考えたなと思いますし、婦人運動を始めて、それにのめり込んでいった行動力。
節治郎氏と離婚せず、龍野で仲良く暮らしていたら、かたは婦人運動をせず、露風は詩人にならなかったかもしれないですが、やっぱり何か、すごいことを成し遂げたかもしれないとも思います。