鶉野飛行場跡

加西市の鶉野飛行場跡へ行ってきました。
ここには姫路海軍航空隊基地、川西航空機姫路製作所鶉野組立工場がありました。

鶉野飛行場跡の歴史

川西航空機株式会社鶉野工場と姫路海軍航空隊基地は太平洋戦争と密接に関係しています。

昭和3年(1928)川西航空機株式会社創立
昭和5年(1930)川西航空機、本社および工場を武庫郡鳴尾村に移転。
昭和6年(1931)9月 満州事変
昭和12年(1937)7月 日中全面戦争
昭和16年(1941)
 12月 真珠湾攻撃
 12月 川西航空機宝塚製作所を開設、創業開始
昭和17年(1942)
 2月 川西航空機甲南製作所を開設、創業開始
 4月 仮称一号局地戦闘機の試作に着手
 7月 川西航空機姫路製作所開設、創業開始
 12月 仮称一号局地戦闘機完成、海軍制式機に採用。「紫電」と命名、量産開始
昭和18年(1943)
 3月 仮称一号局地戦闘機改の試作に着手
 3月 姫路海軍航空隊基地建設工事が始まる
 10月 姫路海軍航空隊基地開隊
 12月 仮称一号局地戦闘機改完成。海軍制式機に採用、「紫電改」と命名、量産開始
昭和19年(1944)
 3月 姫路航空基地にて、第三一空、第三二空編成、マニラに配備
 10月 海軍神風特別攻撃隊出撃
 11月 B29による日本本土空襲の開始
 11月 姫路製作所鶉野工場を開設。
昭和20年(1945)
 3月 アメリカ軍艦上機により姫路航空隊基地攻撃
 3月 姫路航空隊特別攻撃隊白鷲隊、宇佐航空基地に進出
 3月 紫電改不時着により国鉄北条線列車転覆事故
 4月 沖縄戦支援、菊水作戦による特攻出撃
 5月 姫路海軍航空隊閉隊
 5月 甲南製作所を B29 が精密爆撃
 6月 鳴尾、姫路製作所を B29 が精密爆撃
 7月 アメリカ軍艦上機により、姫路航空基地攻撃
 8月 ポツダム宣言受諾、終戦
 10月 占領軍、姫路航空隊基地に進駐(46年5月まで)
昭和24年(1949)旧姫路海軍航空隊基地跡の開拓土地売渡はじまる
昭和32年(1957)滑走路、アメリカ軍による接収解除
昭和37年(1962)滑走路の4分の1、農林省に引き渡し。4分の3は防衛庁
昭和41年(1966)県立兵庫農科大、国立移管に伴う新農場建設工事開始
平成6年(1994)11月 KASAIスカイフェスティバル開催
平成10年(1999)10月 滑走路わきに、鶉野平和記念の碑建立

姫路海軍航空隊

姫路海軍航空隊は昭和18年(1943)10月に開隊し、昭和20年(1945)5月に閉隊しました。航空隊があったのは約2年と短かったようです。

基地入口
衛兵詰所

姫路航空基地は実用訓練を行う練習部隊でした。
初級、中級訓練を終えた練習生が、艦上攻撃機、練習機による実用教程を終え、全国の航空隊に赴任していきました。
昭和19年3月には、内地での燃料不足により、練習を外地でおこなうため。航空隊(第31空、第32空)を編成し、マニラに向かって出発。
昭和20年2月、戦局の悪化に伴い、実用教程練習航空隊からも特別攻撃隊が編成されることになり、姫空からも志願者が募られます。
特別隊は白鷲隊と名付けられ、3月には宇佐海軍航空隊へ進出しました。
4月には沖縄戦支援のために6回にわたって串良基地から出撃し、63名が戦死します。
姫空が閉隊されたのは昭和20年5月5日。この日、第五航空艦隊に編入されました。

基地の周りには防空壕、機銃座が配置されていました。

基地内最大の防空壕。長さ14.5m、幅5m、高さ5mの内部空間があり、コンクリート製でした。
この防空壕は「巨大防空壕シアター」として、姫路海軍航空隊特別攻撃隊「白鷺隊」に所属した隊員たちが残した遺書をもとにした映像が公開されています。

機銃座は飛行場周辺に5ヶ所設置されていました。
25mm連装機銃という機銃が設置され、この機銃は日本海軍で使われたそうです。

対空機銃座跡

航空隊基地の滑走路の隣には川西航空機鶉野組立工場がありました。
川西航空機株式会社鶉野工場は1944年12月に姫路製作所(姫路市)の組立工場として開設され、姫路で部品を作り、鶉野で最終組立をおこない、鶉野飛行場で試験飛行を行い、完成した機は海軍に引き渡すというシステムでした。
姫路製作所は42年7月に播但線京口駅近くにあった日本毛織姫路工場の建物を転用して建てられ、紫電、紫電改の量産に備えました。
姫路製作所には完成した飛行機を飛ばす飛行場がなかったので、加西に建設された姫路海軍飛行場の西に組立工場が建てられました。
姫路製作所では、終戦までに紫電466機、紫電改44機が製造されました。

滑走路は1200m。だだっ広い一直線の空き地、という感じです。

加西市は「気球の飛ぶ町」ということで、滑走路跡を利用した気球のフライトに力を入れています。

紫電改

この滑走路跡の端に紫電改の模型を収めた備蓄倉庫があります。22年4月には鶉野ミュージアム『soraかさい』としてオープンされます。

備蓄倉庫

紫電改は川西航空機によって開発されました。設計者は姫路出身の菊原静男技師。
太平洋戦争が始まった昭和17年、水上戦闘機「強風」のフロートを取り外して陸上戦闘機に改造する開発が進められました。
昭和17年末、試作機が完成。この戦闘機は紫電と名付けられました。
その後、翼を低翼式への改造などが行われ、18年末に試作機が完成。
こうしてできた戦闘機が紫電改です。
紫電は終戦までに約1000機、紫電改は約400機作られました。

紫電改は以下の特長があります。

・最高速度は時速 600 km。ゼロ戦より速い。
・250キロ爆弾を2個装備可能
・20ミリ長射程機銃4門、携行弾数800発の兵装
・防弾タンク、防弾楯装備
・理想的空戦フラップを装備
・操縦装置に腕比変更装置があり、低速時、高速時の操縦性が良好。

速力は零戦より早く、零戦の弱点であった防御を強化しています。空戦フラップなどで操縦性も良かったようです。

列車転覆事故殉難の地

北条鉄道網引駅
列車転覆事故殉難の地の看板

1945年3月31日、海軍による最終検査中の紫電改のエンジンが急に停止、不時着しようとした際、尾輪が線路を引っ掛けてしまう。線路が少し外れ、傾く。そこへ乗客で満員になった列車が接近。機関車は180度転覆。機関車の上に客車がのり上げ、客車は中ほどでくの字に折れ曲がった。
この事故で、死者12名(乗客11名、飛行機搭乗員1名)、重軽傷者104名をだす大事故になった。にもかかわらず、詳しく調査されることはなかった。
「軍の機密」「調査の必要無し」と憲兵隊長が言ったと、当時の車掌がのちに証言した。
軍の記録には「搭乗員殉職」のみ。

今だけら言えることかも知れませんが、隠蔽してしまうということはよくないですね。
こういう状況に陥らないよう、心がけて行動していかなければなりません。

平和祈念の碑

備蓄倉庫の隣には平和祈念の碑があります。

碑文を記します。

美しく空に果てたり鶉野の
雲夕焼けて永くたゆとう

中央右の碑より

神風特別攻撃隊白鷺隊記

神風特別攻撃隊白鷺隊は、姫路海軍航空隊員より編成され、この地鶏野飛行場において日夜訓練を重ねた。

隊長 佐藤 清 大尉以下六十三名は、その保有する艦上攻撃機二十一機をもって、昭和二十年四月六日より五回にわたり鹿児島県串良基地より出撃し、沖縄周辺の米軍艦艇にたいし飛行機もろとも体当たり攻撃をくわえ、壮烈 戦死を遂げた。

戦いは遂に国土防衛戦に入り、膨大なる物量を誇る米軍の強襲に、わが沖縄守備隊の戦力では如何ともしがたく、菊水作戦が発動され航空機による特別攻撃隊の投入となり、海空による総攻撃が開始されたのである。

姫路空白鷺隊も決然としてこれに加わった。隊員たちは出撃にさいし、遥か故郷の愛する家族らに別れを告げ、再い還ることなき特攻に若き命を捧げ、武人の務めを全うしたのである。

今ここ鶏野の地に碑を建立し、この史実を永世に伝え、謹んで殉国された勇士の御霊をお慰めし、併せてそのご加護により永遠の平和の実現を切に願うものである

中央左の碑より

飛行場建設に協力した地元の人々

播磨平野中部丘陵の加西郡九會村中野、鵜野、宮木と下里村野本一帯は、鶉鳴く農村地帯であった。

昭和十六年十二月八日、西太平洋で始まった米、英国との戦いにおいて、航空機によるハワイ真珠湾攻撃が成功し、海軍は航空機搭乗員の訓練を目的として全国各地に練習航空隊を設置することになり、この地も候補に上がった。
一般民家、企業が立退きの対象となり、昭和十八年一月上旬より土地買収及び家屋移転等の承諾調印が行われた。工事が始まり、地元加西郡はもとより近隣町村より勤労奉仕団、国民学校、中学、女学校の学徒動員の生徒、また朝鮮の人達の誠身的労働により、僅か一年余りの作業で飛行場は完成した。

そして、全国より配属されて来た若き操縦練習生たちは、日夜飛行訓練に精を出した。訓練合間の休日には地元の人々は彼らを暖かくお世話をした。

昭和二十年に入ると、この鶏野にも米艦栽機が飛来し、飛行場は言うに及ばず周辺の民家にも攻撃を加え、一般住民にもかなりの被害が出た。戦争は我が方に利あらず、八月十五日に戦争は終わった。そして元の静かな鵜野に戻った。この平和をいつまでも続けるため、ここに飛行場設置に協力した多くの人々の労苦を後世に残し、碑を建立するものである

右の碑より

今、ウクライナで戦争が起こっています。
早く平和が戻ることをお祈りいたします。

「加西市歴史街道ボランティアガイド 加西・鶉野飛行場跡」、「海軍戦闘機列伝」を参考にしました。