兵庫津にある能福寺は巨大な兵庫大仏、平相国廟、月輪影殿、ジョセフ・ヒコの英文碑などがある天台宗のお寺です。
延暦24年(805)、伝教大師(最澄)は唐からの留学の帰り、和田岬に上陸します。地元の人々は喜び迎え、堂宇を建立して大師に教えを願いました。大師は自作の薬師如来像をお堂に安置し、能福護国密寺と名付け、国の安寧と庶民の幸福を祈願し、我が国最初の教化霊場とされました。
道を歩いていくと、屋根の上に大仏のお顔が見えます。
大仏なので大きいとは思っていましたが、想像を超えた大きさ。
なんとなく、ギョッとしました。
門を入ると、真正面に大仏様がおられます。
地上からの高さは 18 m(身丈 11 m、蓮台 3 m、台座 4 m)、重量は 60 t。
奈良の大仏は身丈 15 m、鎌倉の大仏は 11 m。
能福寺の大仏は鎌倉の大仏と同じような大きさです。
もとは明治24年(1891)に豪商・南條荘兵衛の発願により建立されました。ところが昭和19年(1944)金属回収令により大仏は赤だすきをかけて出征されました。
今の大仏は平成3年(1991)、市民の要望、多数の企業の協賛により再建されたものです。
本堂は京都東山にある歴代皇族の墓陵「月輪御陵」の九条公爵家の拝殿で、昭和28年九条家より拝領移築されたもので、「月輪影殿」といいます。
青色の看板に金剛組の名がありました。
金剛組は創業578年!の世界最古の企業・建設会社です。
月輪影殿は阪神・淡路大震災で大きく破損しましたが、平成9年に金剛組によって解体修復されました。
境内に入ってすぐのところに神戸事件の犠牲者、瀧善三郎正信の顕彰碑があります。
慶応4年(1868)、三宮神社前で、備前藩の行列の前をフランス兵が横切ったことから小競合いが発生。明治政府にとって初めての外交問題になりました。
この事件の責任を取らされ、備前藩士・瀧善三郎は切腹になります(神戸事件)。
平清盛公の墓所とされる平相国廟です。
平清盛と能福寺の関係は深いものがあります。
仁安3年(1168)太政大臣を辞した平清盛公は能福寺で剃髪し入道となります。
治承4年(1180)福原遷都に伴い、能福寺は大きな寺となる。
養和元年(1181)清盛死去。遺言により住職・円実法眼が全遺骨を福原に持ち帰り、平相国廟が造立されたという。しかし、平家滅亡によりことごとく破壊される。
弘安9年(1286)平家一門の栄枯盛衰を哀れんだ北条貞時公により石塔が建立される。清盛塚の十三重塔が、その石塔です。
能福寺にある平相国廟は昭和55年(1980)清盛公800年大遠忌に合わせて復興されました。
「ジョセフ・ヒコの英文碑」はジョセフ・ヒコが神戸に来た外国人向けに能福寺の由来を英文で彫ったものです。作られたのは明治25年頃で日本初の英文碑ということです。
北風正浩君顕彰碑は姫路城を守り、新川運河開削等に活躍した北風正造氏の顕彰碑です。
自分の私財を使って地域、日本に貢献したというのがすごいと思います。
能福寺は色々な歴史が詰まったお寺でした。