片鉄ロマン街道をサイクリング

片上鉄道は瀬戸内海に面する片上から鉱山の町・柵原を結ぶ 33.8 km の鉄道でした。
大正12年(1923)に片上ー和気間が開業。昭和6年(1931)に片上ー柵原間が全線開通しました。同和鉱業柵原鉱業所から硫化鉄鉱などを輸送するとともに、通勤通学に使われました。
しかし、国内産硫化鉄鉱の需要が減り、昭和62年(1987)鉱石輸送がトラックに切り替えられます。約3年の存続試行期間の後、平成3年(1991)7月に廃線となりました。

現在、片上鉄道廃線跡は「片鉄ロマン街道」としてサイクリングロードになっています。

片鉄の起点

片上湾に面したところに片上鉄道のゼロ起点があります。
ゼロ起点の南側は海です。

片鉄ゼロ起点
DD13-502号機

柵原鉱山から輸送されてきた硫化鉄鉱は片上湾から同和鉱業岡山精錬所に送られ、化学原料や肥料が作られました。

硫化鉄鉱石を出荷した片上湾

ゼロ起点を見てから片鉄ロマン街道のサイクリングをスタートしました。
スタート地点の流川にはたくさんの鯉のぼりが泳いでました。

片鉄ロマン街道の看板
流川の鯉のぼり

片鉄ロマン街道

片鉄ロマン街道を走ると次々と駅舎跡が現れます。片上から柵原まで駅の数は17 。
片上→清水→中山→和気→本和気→益原→天瀬→河本→備前矢田→苦木→杖谷→備前塩田→備前福田→周匝→美作飯岡→吉ケ原→柵原
約2kmに1つ駅がある感じです。

清水駅跡

片上から急な坂を登り、全長 203 m の峠清水トンネルをくぐると備前市から和気町に入ります。少し行くと清水駅があります。

峠清水トンネル
清水駅跡

中山駅跡

次は中山駅です。中山サーキットへの最寄り駅です。でも、みんな車で行ったのでしょう。

中山駅跡

和気駅

和気駅でJR山陽線とつながっていました。片鉄ロマン街道の看板がでています。

駅の向こうに和気富士が見えます。
和気富士は標高 172 m。
和気駅の方から見るときれいな富士山型ですが、背後には山が連なっていて、和気アルプスと呼ばれているようです。

和気富士が見える

本和気駅跡

和気駅から 1.5 km のところにある本和気駅跡。和気の市街地に近いので「本和気」と名付けられたようです。

本和気駅跡

益原駅跡

益原駅跡の横に和気鵜飼谷交通公園があります。子供たちが楽しそうに遊んでいました。

益原駅跡
片上鉄道ワム1805

天瀬駅跡

しばらく吉井川沿いを走っていくと新田原井堰が見えてきました。

吉井川は流量の変化が大きく、農業用水の不足、洪水を繰り返してきたため、岡山藩主・池田光政、綱政に仕えた津田永忠が田原井堰を築きました。
それから300年間、田原井堰は働き続けましたが、老朽化、水需要の増加により新田原井堰に建て替えられました。完成は昭和61年。150年に一度の大洪水にも壊れないように造られたそうです。先代の井堰に負けず、いつまでも働いてほしいです。

新田原井堰

新田原井堰を過ぎるとすぐに天瀬駅跡に到着です。伝言板に残されたメッセージが楽しい。

天瀬駅跡
天瀬駅跡

天瀬駅を過ぎると天神山トンネルです。短いトンネルが連続します。第1号トンネルは全長 40 m、第2号トンネルは 27 m。

天神山第1号トンネル
天神山第2号トンネル

トンネルを抜けたところから見る吉井川はきれいです。

河本駅跡

天瀬駅の次は河本駅ですが、駅舎跡は残っておらず、見逃してしまいました。

備前矢田駅跡、苦木駅跡

備前矢田駅跡はホームが、苦木駅跡は小さな駅舎が残っていました。

備前矢田駅跡
苦木駅跡

杖谷駅跡、塩田駅跡

杖谷駅、塩田駅は残っていませんでした。

Googleマップによる塩田駅跡

福田駅跡

福田駅跡は休憩所になっていました。
休憩所内に片鉄ロマン街道、赤磐市などの資料が置いてありました。

周匝(すさい)駅跡、美作飯岡(ゆうか)駅跡

周匝駅、美作飯岡駅ともに残っていません。
ここまで来ると備前ではなく美作になるのですね。

Googleマップによる周匝駅跡
Googleマップによる美作飯岡駅跡

柵原ふれあい鉱山公園

柵原ふれあい鉱山公園に到着。ここに吉ケ原駅跡、鉱山資料館があり、列車が展示されれています。また、少し行けば黄福柵原駅があります。

吉ケ原駅

駅舎、ホーム、列車が残っています。
コロナ前は片上鉄道保存会によって展示運転が行われていたそうです。コロナが落ち着いて展示運転が復活できればいいですね。

吉ケ原駅
駅舎内
線路と列車

黄福柵原駅跡

平成26年に開業した黄福柵原駅です。
これで吉ケ原駅から黄福柵原駅まで列車の運転ができるようになりました。
ネットに「黄福柵原駅 開業日の記録」というページがアップされています。
開業の興奮が伝わる記事です。

黄福柵原駅
ホームの表示板は「柵原」

柵原駅跡

Googleマップでは柵原駅跡があるように表示されますが、DOWAグループの工場敷地になっていて入ることはできません。
壁に迫力があり、鉱山!という感じがします。

柵原鉱山資料館

吉ケ原駅の隣に鉱山資料館があります。
柵原鉱山の生産が好調な、山の男たちのワイワイした感じがよく出ている展示で、楽しいものになっていました。

柵原鉱山資料館
硫化鉄鉱の展示

特に、地下1Fにエレベーターで降りていくとき、本当に鉱山の地下に降りていくような演出がされていて、エレベーターのドアが開いたときの光景は良かった。

エレベーターが開いた
採掘作業

卵かけご飯の店

昼ごはんは卵かけごはんのお店「らん」で食べました。
シンプルにご飯、お味噌汁、お漬物と生卵2つです。
それを5種類のタレを少しずつかけて食べます。タレはネギ、ゴマ、のり、ラー油いり、しそ、木ニラ。個人的には木ニラが一番美味しかった。

顕彰碑、山の神社

柵原ふれあい鉱山公園からさらに走ると柵原鉱山の顕彰碑、片上鉄道で殉職された方を慰霊する殉職碑、山神社があります。

顕彰碑
殉職碑

顕彰碑には柵原鉱山の歴史が述べられています。要約すると次のことが述べられていました。

  • 徳川時代初期、津山藩主森忠政が津山城を築城するための石材を収集中していたときに、褐鉄鉱の露頭が発見された。(慶長9年/1604年頃と思われます)
  • 明治になり、地元関係者によって採掘が試みられた。
  • 大正5年(1916)合名会社藤田組が付近一帯を買収、本格的な生産を開始した。
  • 昭和20年(1945)社名が同和鉱業株式会社に代わる。
  • 柵原鉱山は埋蔵量、鉱石品質ともに優れ、戦前から硫化鉄鉱生産量は東洋一だった。
  • 戦後、硫化鉄鉱の増産によって日本の復興に寄与した。
  • 昭和40年後半から硫黄需給構造が変化し、経営規模が縮小されていった。
  • 平成3年(1991)柵原鉱山の採掘が終了、閉鉱となった。

75年間の操業の間、いろいろなことがあったと思います。

山の神社へ登る石段の両脇に鉱石が祭られています。知識がないので石の種類はわかりませんでしたが、キラキラした光がしていました。

神社には鉱物の神である金山彦命が祀られているそうです。
安全のために、考えつくさまざまな対策をしていても、最後は神様にもお願いしたいと考えるのは自然なこと。
山神社の神が守ってくれているのだと思いました。

鳥居
石段の上の社殿

今回始めて片鉄ロマン街道をサイクリングしました。
距離も33.8 kmでそんなに長くなく、アップダウンもほとんどなく、走りやすいサイクリングロードでした。
いろいろと見るところも多く、楽しいサイクリングができました。