源平合戦・勇士の碑

寿永3年(1184)2月7日、一の谷の合戦が始まります。
源氏方は東から源範頼、西から源義経が攻めます。
平氏方は生田の森に陣を敷いた平知盛が東の防御。西の防御は平忠度、北は平盛俊。
激しい戦いの中、義経による逆落としの攻撃が決まり、平家は敗北。
多くの武者が討ち取られます。それも高級幹部の平忠度、平盛俊が討ち死に、東の副将であった平重衡は生け捕りになるという大敗北。

源平合戦勇士の碑が村野高等学校近くの新湊川沿いに建っています。
そして、少し離れたところに監物太郎頼賢の碑があります。

監物太郎頼賢の碑

戦場から平知盛、息子の平知章、家臣の監物太郎が逃げていきます。
その途中、源氏方の児玉党との戦いになり監物太郎、平知章は討ち死にします。
しかし、そのすきに平知盛は逃げのびました。

監物太郎頼賢の碑

源平合戦勇士の碑

平氏方の平知章、平通盛そして源氏方の木村源吾重章、猪俣小平六則綱の碑があります。
源氏と平氏。どちらもお祀りされています。
昔は村野高等学校の運動場あたりに小平六池と呼ばれる池があり、池の中に猪俣小平六の塚があったそうです。

平知章の碑
平通盛、木村源吾重章、
猪俣小平六則綱の碑

名高い武将のみならず、多くの武士が亡くなったことがわかります。

平知章

平氏の大将平知盛の長男。
一の谷の合戦で敗れ逃げる途中、源氏方児玉党との戦いになる。激しく戦い、討ち死にするも父知盛は逃げることができた。

平通盛

北城戸の守りについていた。源氏方の木村源吾重章と相打ちとなった。

木村源吾重章

平通盛と相打ちとなる。

猪俣小平六則綱

平盛俊をだまし討ちで討ち取った源氏の武将。このあたりで戦死したとされています。
埼玉県児玉郡美里町に墓があり、建久3年(1192)に死去したとされています。