日本橋七福神めぐりをしました。日本橋の七福神は次の神社です。
全部回っても4kmぐらい。距離が短く、手軽に巡ることができました。
小網神社(福禄寿、弁財天)
茶ノ木神社 (布袋尊)
室生弁財天(弁財天)
松島神社(大国主)
末廣神社(毘沙門天)
笠間稲荷神社(寿老人)
椙森神社(恵比寿神)
小網神社
小網神社は福禄寿、弁財天。多くの人がお参りしていました。
案内には「昭和20年3月10日東京大空襲の際、社殿を含む境内建物は奇跡的に戦災を逃れたことから強運厄除けの神様として崇められている。こじんまりとしているが、パワースポットとして有名」とあります。
社殿の横には銭洗いの井があります。
この井で金銭を清め、財布などに入れておくと財運を授かるとされています。
さっそく、お金を洗いました。
これが増えるとうれしいです。
茶ノ木神社
茶ノ木神社は布袋尊。福徳円満と防災の神様として信仰されています。
「ここは下総佐倉の城主の屋敷の中で、屋敷内や町内にも火災がなかったことから、火伏せの神としても信仰を集めている。」
とありました。
茶の木神社の名は、社の周りで生い茂っていた茶の木が由来です。
今は茶の木はなく、道路とビルに囲まれてます。江戸時代は自然が豊かだったのですね。
水天宮・室生弁財天
宝生弁財天はその名の通り弁財天の神社です。
近代的な水天宮の境内に鎮座されています。
水天宮は安産、子授けの神様、安産祈願スポットとして人気の神社です。
久留米藩第九代藩主有馬頼徳公が加賀藩第十一代藩主前田斉広公と宝生流能楽の技を競われた際、弁財天に願をかけ、見事に勝利を収めた。
説明板より
それ以来、宝生弁財天と敬われ芸事をはじめ学業・金運のご利益が名高いと現在に至るまで篤く信仰されている。
調べてみると、宝生流というのは能楽の流派の一つでした。
「能は謡と演技を担当する立方、伴奏担当の囃子方で構成され、立方はシテ方、ワキ方、狂言方の3つの役、囃子方は笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方の4つの役がある。
シテ方には「能楽五流派」と呼ばれる観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流の流派があり、宝生流は観世流に次ぐ第二の規模を持ち、重厚な芸風でかつ「謡宝生」と呼ばれる細やかで優美な節回しの謡が特徴の流派」ということでした。
松嶋神社
松嶋神社は大国主の神社。
ビルの一角におまつりされています。
ネットで調べると、「創建は鎌倉時代の元亨(1321)以前。このあたりが海だった頃、松が生い茂る小さな島があり、毎夜島にあった祠に明かりが灯され、近くを航行する船が目印にしていたのが起源。」ということでした。
このあたりが海だったとは、とても信じられません。
末廣神社
末廣神社は毘沙門天の神社です。
吉原が現在の地に移る前の元吉原の総鎮守社として信仰されてきたそうです。
「末廣徳の石」という石がありました。
お盆の上に財(お金)をおいて、手を合わせて「いや、すえひろがり」と心でとなえ、財を持ち帰ります。
その財を使えば徳運が広がり、使えば徳運が貯まるそうです。
笠間稲荷大明神
笠間稲荷神社は寿老人の神社。
茨城県・笠間にあった笠間藩主が信仰しており、江戸時代末期、安政6年(1859)に分霊を江戸屋敷にお祀りされた神様で、日本橋魚河岸の守り神ということです。。
椙森神社(すぎのもりじんじゃ)
椙森神社は恵比寿神です。
天慶3年(940)、藤原秀郷が平将門の乱の鎮定に向かうとき、椙森神社で戦勝を祈願。見事に将門を討ち果たし、乱を鎮定したというエピソードがあります。
江戸城下の三森(烏森、柳森、椙森)の一つ、椙森稲荷と呼ばれて信仰を集めたということです。江戸時代、このあたりは森だったのですね。
火事が多かった江戸時代、消失した寺社の再建のために富興行(宝くじ)が行われました。
椙森神社でも富興行が行われたようです。
鳥居の横に富塚の碑が建っています。
大正8年に建立。大正12年の関東大震災で倒壊したが、昭和28年に再建されました。
日本で唯一のもので、宝くじの元祖として多くの人が祈願に訪れるそうです。
早朝に七福神巡りをしたのですが、おまいりしている人がたくさんいました。
こんな都会なのに、神頼みをする人が多いのが意外でした。
いろいろやってみて、最後は神様にお願いするという考えはありですね。