もう一つの関ヶ原・壬申の乱

関ヶ原では天下を分ける大きな戦いが3度行われました。
一つは徳川家康率いる東軍と石田三成の西軍の関ヶ原の戦い。
二つ目は暦応3年(1338)の室町幕府軍と北畠顕家率いる奥州の軍勢との戦い。
三つ目が1350年前に起こった大海人皇子と大友皇子との間で戦われた壬申の乱です。

今回、関ヶ原で戦われた壬申の乱の跡を巡りました。

壬申の乱の経過

天武天皇元年(672)6月24日、天智天皇の死去にあたって吉野に逃れていた大海人皇子は吉野を出発し、伊賀中山(現伊賀市)に到着。
6月25日、鈴鹿山道を東進。鈴鹿郡に到着。
6月26日、桑名郡に到着し、不破関の閉塞に成功。
6月27日、和蹔(わざみ 関ヶ原)に入る。
6月29日、大和での戦いで大海人軍が勝利。
7月7日、近江での戦いで大海人軍が勝利。
7月22日、瀬田橋の戦いで勝利した大海人軍は近江大津京を攻略。
7月23日、大友皇子自害。

この戦いに勝利した大海人皇子は都を大津から飛鳥・藤原京に移し、天武天皇として即位します。

野上行宮跡

関ケ原に着いた大海人皇子は野上に行宮を興し、本陣としました。
今は草深いばかりで、何も残っていません。

草しかない
野上行宮跡

徳川家康は野上に近い桃配山に陣地を構えました。
大海人皇子が野上に行宮を構えたことにあやかるためとも言われています。

不破の関

大海人皇子が関ケ原に来たのは東国との行き来を遮断する不破の関を抑えたかったからだ、という説があります。

南限の土塁跡

当時は大きな土塁が築かれていたそうです。
何軒の土塁から北限の土塁までは約400mあり、不破の関は大きな拠点だったようです。

南限の土塁跡

鍛冶工房跡

不破の関の東南の角に当たる地点で、土塁の内側には鍛冶工房があったようです。

鍛冶工房跡

東山道と東城門跡

不破の関の中央を東山道が通っていたそうで、東側の入口が東城門。
日の出とともに開門、日の入りで閉門されました。

東城門跡

不破の関関庁跡

1町四方(約108m)の大きさの庁舎が建てられていたようです。

不破の関関庁跡
不破の関関庁跡

西城門跡

不破の関の西限は藤古川で、河岸段丘の上に主要施設が作られていたそうです。
大木戸板という地名が残っていて、西城門があったと推定されています。

西城門跡

不破の関資料館

不破の関の発掘研究のもとに建てられた資料館。壬申の乱当時の政治、各人の対立関係などがわかりやすく説明されています。
悪者蘇我蝦夷、蘇我入鹿を殺し、大化の改新を成し遂げた中大兄皇子(天智天皇)はクリーンな人物だ、という感覚でいましたが、周りの人間を殺しつづけたかなり怖い人物のようです。

不破の関資料館

壬申の乱跡

不破の関の西にある藤古川で、大海人軍と大友軍の初めての戦いが行われました。
大友軍が奇襲攻撃を大海人軍が撃退。その後、近江へ侵攻していきました。

兜掛石と沓脱石

不破の関の中心部に、大海人皇子が兜を脱いでかけたという兜掛石と、沓(くつ)を脱いだ時に、足を掛けたとされる沓脱石があります。
大海人皇子も軍とともに前進し、大友軍と対決したのでしょう。

兜掛石
沓脱石

黒血川

黒血川という名は、両軍の兵士が流した血によって川底の岩石が黒く染まったことからつけられたそうです。
すごい激戦だったようです。

黒血川

自害峰

自害された大友皇子の頭が葬られていると伝えられています。

大津で自害した大友皇子の首が不破の野上行宮に運ばれ、首実験の後、この丘に葬られたそうです。
そのしるしとして三本杉が植えられ、自害峯と名付けられました。

自害峰の三本杉

井上神社

不破関での戦いは、藤古川の東側の村人は大海人皇子(天武天皇)に、川の西側は大友皇子側について戦ったそうです。

川の東にある井上神社は大海人皇子・天武天皇をおまつりしている神社です。

藤下若宮八幡神社

藤下若宮八幡神社は弘文天皇(大友皇子)をおまつりしている神社です。
神社のある藤下地区の住民は大友皇子側について戦ったそうです。

若宮八幡神社

若宮八幡神社も弘文天皇(大友皇子)をおまつりしています。
この神社のすぐ上に大谷吉継陣跡がありました。

壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武2年(673)、飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位し、政治を大きく変えていきます。
①国号が倭から日本に改められた。(大宝律令:大宝元年/701年)
②称号が大君から天皇に改められた。(飛鳥浄御原令:持統3年/698年)
③皇親政治が行われた。
④天皇の神格化が始まった。

日本という名前、天皇という称号が天武天皇から始まったのですね。
壬申の乱は日本の大きなターニングポイントでした。