天照山明泉寺は天平年間(729〜749)に行基によって創建されたと伝えられます。
もともとは現在地より北西の古明泉寺大日丘にあったといいます。
寿永3年(1184)2月7日、一の谷の合戦が始まります。
東から源範頼、西から源義経が攻めます。
平家の方は、生田の森に平知盛、一の谷に平忠度が布陣。そして、北の防御として平盛俊が明泉寺に陣を敷きました。鵯越から攻めてくる源氏に備えたものと思います。
戦いは源氏の勝利に終わります。
明泉寺は焼かれ、平盛俊は討ち死。平家は大敗北を喫しました。
感応2年(1351)、摂津守護の赤松光範によって現在地に再建されます。
明泉寺は牛の寺ということです。
昔はこのあたりでも牛が飼われていて、貴重な労働力として大事にされていたそうです。
墓域の一画に平家の猛将・平知盛の子、平知章の墓があります。
一の谷の戦いに敗れ、逃げる平知盛、息子の平知章、家臣の監物太郎。そこに源氏方の児玉党10余騎が迫る。児玉党の大将が知盛に組み付こうとした瞬間、知章が割って入る。大将を馬から落とし、取り押さえて首をかききった知章。しかし、残った敵に襲われ討ち死。
知章の決死のふるまいで父・知盛は逃げ延びた。
知章が討ち死にしたのは寺の北の谷、モンナ池の辺りだったということです。
グーグルマップで調べましたが、モンナ池がどこにあるかはわかりませんでした。
高速長田駅の近くに監物太郎頼賢の碑、源平勇士の碑があり、ここにも平知章の碑が建てられています。