隅田川という能で描かれる梅若伝説の跡地を辿ってみました。
梅若伝説
梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房と花御前の子として生まれる。5歳で父をなくし、比叡山で修業に入る。松若丸との稚児の争いの中、信夫藤太という人買にかどわかされる。藤太は梅若丸を奥州に連れて行こうとするが、旅慣れない梅若丸は重い病気にかかってしまい、隅田川のほとりに置き去りにされる。そして、里人たちの看護もむなしく、わずか12歳でその生涯を閉じる。
梅若丸を哀れに思った里人とそこに居合わせた高僧・忠円阿闍梨は梅若丸の菩提を弔うため塚を築き柳の木を植える。
梅若丸の死から1年後、息子を捜し求める旅に出た母・花御前が隅田川にたどり着く。塚の前で大勢が念仏を唱えているのを見、塚に葬られているのが息子・梅若丸であることを知る。花御前も加わり念仏を唱えると、梅若丸の亡霊が現れ、悲しみの対面を果たす。
母・花御前は塚のそばに庵を建て梅若丸を供養するが、ある日鏡ヶ池に入水してしまう。すると、花御前の遺体をのせた亀が浮かび上がってきた。
これを見た忠円阿闍梨は花御前の墓を立て妙亀大明神として祀った。
この伝説を元にして「隅田川」が創られたとされています。作者は観世十郎元雅。祖父は観阿弥、父は世阿弥という能作者です。
梅若塚石碑
東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅から歩いて10分の梅若公園に梅若塚の石碑があります。
梅若を弔う木母寺はこのあたりにありましたが、団地建設のため現在地に移転。
代わりにこの石碑が建てられました。
ここには石碑がポツンと建っているだけでした。
木母寺
梅若塚がある木母寺です。
梅若塚のかたわらに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりで、梅の字を木と母に分けて「木母寺」になったと言います。
梅若堂の隣に梅若塚がありました。江戸時代には梅若山王権現の霊地として信仰されたそうです。
明治22年に建立された若梅堂は木母寺が防災拠点区域内にあり、木造建造物の設置が認められないためガラス張りの覆堂に納められています。
木母寺には他にも「天下之糸平の碑」、「三遊塚」、「身代わり地蔵」など多くの石造物がありました。
妙亀塚
母・花御前をお祀りする妙亀塚。隅田川の対岸、木母寺から歩いて20分の妙亀塚公園内にあります。
公園自体周りより1m程度高いのですが、塚は更に高くなっています。公園全体が塚としたら、大きな塚だと思います。
塚の頂上には板碑がありました。「弘安11年戊子5月22日孝子敬白」と刻まれているそうです。
弘安11年は1288年。平安時代を舞台とする「梅若伝説」とは時代が異なり、妙亀塚と板碑の関係はわからないようです。
「たづね来て 問はばこたへよ 都鳥 すみだ川原の 露と消ぬと」の辞世を残して死んでいった梅若丸。わが子を探し歩き、隅田川で梅若丸が亡くなったことを知った母。
梅若伝説は悲劇に終わる話でした。
墨田区を活動拠点にしていた葛飾北斎が「梅若の秋月」という作品を遺しています。
ここでは梅若丸と母花御前が楽しそうに舟に乗っています。
絵の中で再会した親子。北斎は優しいですね。